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新茶と玄関

 5月を迎え、日に日に新緑の鮮やかさが際立つようになってきました。
 この時期になると楽しみになってくるのが「新茶」です。お茶の旬ともいえるこの時期の日本茶は栄養価も高く、香りはさわやかで奥深い味わいが特長です。最近はペットボトルの緑茶を飲む機会が多いですが、時には急須で入れたお茶を楽しむのもいいものです。

 日本のお茶の歴史は奈良・平安時代、最澄・空海などの留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったことに始まるとされています。平安初期の『日本後紀』には、「嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。
 鎌倉初期には栄西が宋から帰国する際、日本にお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用から製法などについて著した『喫茶養生記』を書き上げました。これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。栄西は、この本を深酒の癖のある将軍源実朝に献上したと『吾妻鏡』に記してあります。

 このように古来からお茶と仏教は深い関係にあり、特に禅宗から大きな影響を受けているとされています。そのため、今日でも「平常心是道」・「日々是好日」などの禅語が書かれた掛け軸が茶室の床の間に掛けられています。

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 この写真の掛け軸もまた、禅語が記された掛け軸で、「玄関」と書かれています。この軸は私が副住職を勤めているお寺に掛けられているものです。
 「玄関」は、現在では建物の正面の入り口を示す言葉ですが、元々はお寺の住職が出入りする場所の事を玄関と呼んでいました。では、何故お寺の床の間に「玄関」という言葉が掛けられているのでしょうか。

 玄関とは元々、玄妙な道に入る関門、奥深い仏道への入り口を意味していました。物理的な入り口というだけでなく、その身一切を仏道修行に投げ入れる覚悟を表わすものです。そして仏道修行とは「己事究明」であると言います。道元禅師も『正法眼蔵 現成公案』の中で「仏道をならふといふは、自己をならふ也」と記されています。
 玄関から一歩、歩みを進めるということは自分が何であるかを追究することです。そのためには、日々の様々な場面において自分が行ずるべきことがらに徹することが求められます。

 大本山總持寺を開かれた瑩山禅師の言葉に「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」というものがあります。簡単に言えば、お茶を頂いているときは目の前にあるお茶を頂くことに集中し、ご飯を頂いているときは目の前のご飯を頂くことに集中しなさいということです。美味しい新茶を頂くとき、一心にお茶と向き合ってみてはいかがでしょうか。

稲垣 了禪(いながき りょうぜん・宗教科)

Photo by Yasasi Rajapakse on Unsplash

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