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選ばれし者は選ぶ者(『マトリックス』批評)

過去に実施した国語科特別演習「視覚芸術と近代」に際して、担当教員が執筆した参考レポートです。
演習では、映画『マトリックス』を中心に扱い、映画『2001年宇宙の旅』を補足として鑑賞しました。

 知能を持った機械によって人々は飼育され、覚めない夢のような仮想社会を生きている。0と1の二進法に還元される電気的な信号によって人はその世界を認識する。onとoffによって作られた世界を象徴するかのようにプログラムと思われる記号たちが画面の中を雨のように落下していく。onとoffという二者択一の組み合わせによって極めて現実的な社会としてマトリックスは人々の頭の中に作られる。

 映画の中でアンダーソン/ネオは幾つもの選択を迫られる。仕事を続けるか/否か、電話の指示に従うか/否か、車を降りるか/否か、薬を飲むか/否か、モーフィアスを救うか/否か。至るところで二者択一が顔を出す。二進法的な電気信号によって存在する仮想世界であるマトリックスの中で、意志の自己決定という問題が浮上する。
 アンダーソン/ネオは世界の真実を知ることを選択した。モーフィアスの差し出す赤と青の薬の選択に対して、躊躇なく赤い薬を選んだ。信号でいえば、赤は止まれを意味する。そのタブーを越えることが、マトリックスの圏内を突破することに繋がっていく。仮想世界から離れたアンダーソン/ネオには、今度は現実世界での意志決定が待ち構えている。

 選択の問題について少し考えてみよう。
 例えば、赤い薬か青い薬かの選択を拒絶したとしても、今度はその選択を拒絶するか/否かの選択を迫られる。二者択一は際限なく拡大する。これからなされる選択の数だけ可能な未来像が出現する。過去に目を向ければ、今に至るまでの間には無数の選択が横たわっている。今ある現在は無数の可能性の一つに過ぎず、これまで選択してきた数だけ実現しなかった現在がある。現在あるものとは違う世界の可能性は無限に存在している。

 仮想社会と現実社会を分けるものは何か。マトリックスから離れてみても、現実社会が一つの可能社会にしか過ぎないというのは先ほど考えたとおりだ。それこそ、この現実が実はマトリックスなのかもしれない。
 そう考えてみると、仮想社会と現実社会の二分法すらも二者択一による巧妙な罠に思えてくる。その罠を突破するためには、仮想/現実の両社会を同時に貫くものが必要とされる。
 「マトリックス」において二者択一が頻出するのは、自己決定において示される個人の意志をその武器としたいからではないだろうか。

 アンダーソン/ネオは選ばれし者であるが故に、選ぶ者の立場におかれている。選ぶ者が新しい未来を作り上げるという図式がここにある。
 人が知恵の実を食べたのは唆されたからではなく、自ら選び取ったのであり、楽園から追放されたのではなく、自ら去ったのだ。そのような読み替えが主体の強さを可能にする。自己決定と思っているものが実は選ばされただけのものであったとしても、その選択を自分で決定したのだとすることによって、初めて能動性を獲得するのだ。
 機械的な二進法の中に埋没する世界の中で、人が人であるためには常に選ぶことを自分において引き受け、自らの意志としなければならない。偶然的な選択をも自分の身に背負うことによって主人公たりうるのだ。

 しかし、選ぶ主体となる者はアンダーソン/ネオばかりではない。サイファーのことを忘れてはならない。アンダーソン/ネオのようにサイファーもまた選択したのだ。仲間たちを裏切ってマトリックスの世界へ戻ることを。
 強い主人公は復活を遂げるが、サイファーはもう帰ってこない。サイファー(cipher)とは通信の際に用いられるアルゴリズムによる暗号を意味する。二進法的な世界と関係する鍵を手にしていたのは救世主だけではないのだ。

(国語科教諭)

Photo by Markus Spiske on Unsplash

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