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YOUは何しに学習センターへ#19村松陽

学習センターに、春が来た。 2024年度の『Youは何しに学習センターへ』。はじまります! 実は、今年度の学習センターインターンはなんと、6人もいるんです!ということで、6回にわたってインターンが何しに学習センターへ来たのか紹介したいと思います。   まずは、一人目の村松陽(ひなた)です。昨年度も3か月お世話になったので、一度書いているんですが、なぜ再び学習センターへ戻ってきたのかをまとめたので、ぜひ読んでいただきたいです。
 
昨年の記事(はじめましての方へ)

「私はどう生きるか」


雲の切れ間に青空がのぞき、果てしない海、そこに緑色の塊が浮かぶ
叔父さんと家督山に登るとそんな風景が広がっていた
遠くには真っ白なフェリーが見える
あんなに大きかった船も、港に並ぶ車も、虫のように小さかった
私もまた、小さな島の山の小さな草木のように、海の小さな泡のように
人々の営みの中のちっぽけな分子なのだ
アオサギが目の前を横切り、冷たい風が吹きつける
地球が問いかける「君たちはどう生きるか」
 

生きることと「私」

 
 幼少期の頃から、自分は何者で、なぜ生きているのか考えることが多かった。それは、大人になっていき、後悔と不安と困難が大きくなるにつれ、大きな課題となって、私を悩ませた。大学の卒業論文をナチス・ドイツを題材にしていた私は、研究とは関係なかったが、興味本位でヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んでみることにした。そこには、「生きのびるには、周囲ではなく自分自身に期待しなければならないこと」「人生に生きることを私たちが問われているということ」が示されていた。どこかで生きる意味を考えても仕方がないと分かりつつも、その疑問にすがっていた。では、私はどう生きればいいのだろうか。
 三島由紀夫は、山本常朝の『葉隠』を用いながら、人は自分のためだけに生きるほど、死ねるほど強くはないと述べる。私もそう思う。そう考えると、誰かの役に立つことをしたい。役に立つ、役に立たないは他者からの評価によって判断できる。しかし、それは私のこれまでの人生を、その判断、つまり他者の評価によって決めることになった。称賛や「いいね」をもらうのは気持ちがいいが、逆に役に立たないことはやらなくなり、迷惑をかける可能性があることは絶対にやらなくなった。役に立ちたいという気持ちは、いつしか承認欲求に埋もれてしまった。生きることを他者に依存していたのかもしれない。他者の「役に立つからやる」ではなく、自分が「役に立ちたいからやる」という自分が主体の意志を持っていたい。つまり、「私はどう生きたいか」を自分軸で考える必要がある。自己の評価が貢献感であり、その中で周囲の評価も大切にしたい。
 「子どもたち」の存在は、私にとって不思議な存在だった。子どもたちの評価は気にしなかったし、共に生きることを模索している気がする。 

多様性の中に生きる「私」

 
 個人が尊重され、あらゆる性別などの枠組みが取り壊され、多様性の認められる社会になってきた。しかし、枠が無くなり、個々に焦点があてられるというのは、孤独で不安である。その中で自由な選択肢を与えられ、自分は何者なのかを問われる。子どもたちを見ていて最近感じたことがある。それは、そういった社会の中で自己をパッケージ化・キャラ化、さらにはカテゴリ化することによって自分が何者か答えようとする子どもがいるということだ。私もその一人だ。自己を理解するということは非常に重要である。「私は〇〇な性格だから」、「僕は△△に該当するから」と理解し、自分に優しく、合理的な配慮を受けることも重要である。しかし、その自己でつくった、または新しく流布した枠に閉じこもってしまうことも考えられる。「自分らしく」、「ありのまま」は「今の自分の固定化」ではない。私は、この固定化によって「自分はこうだから」「人それぞれだから」となって、自分にも、他人にも期待できなかった。「自分」が社会の中で宙ぶらりんの状態で、自分でも何がしたいのか、何をできるのか、どうなっていくのか分からない。どうしたら多様性の中で孤独を解消し、自分に期待できるのだろうか。  
 私は、自分を教師(客観的で、優しい自分)と生徒(悩みを抱えた自分)に分離した。そうすると、自信のない自分にかけられたプレッシャーを考えることがなくなった。自己と対話し、少しの「やりたい」を尊重できた。体験・経験はそれ自体にも価値があるけれど、その中で自分はどんな状態なのか、変化できる部分と変わらない部分を考える機会でもある。その小さな積み重ねが、自分への自信と期待へとなる。島前の教育のすごさは体験的学びがあふれていることもあるが、やはり「本気の大人たち」が生徒へ絶大な期待をしていることだと思う。教育者として、当たり前のことなのかもしれないが、それは想像以上に難しい。そして、「本気の大人たち」も自分自身に、この島に、期待しながら変わり続ける実践者とも感じる。私は、自分に期待し変化し続ける実践者であり、子どもにの可能性を信じる教育者でありたい。そのために、この島前で「できる」を積み上げたい。  
 さらに、孤独を回避するために、インターネット上で似たような趣味、思考のコミュニティがつくられる。そのコミュニティの中だけにいると、固定化はより進み、コミュニティ外の人への理解は偏見、つまり他者をパッケージ化することとなる。また、友達がいるのに孤独を感じるというのは、「人それぞれだから」によって、パッケージ化された表面的なつながりになっているのではないだろうか。島前の「つながり」は島である特性もあってか都会ではもう見られないものが残っており、そこに新しい「つながり」が入り込んでいる。また、島前では、多様性による分断ではなく、つながりの中に多様性がつくられていると感じる。「自分」というのは多面的で、言語化できないもののほうが多い。十人十色とは言うけれど、急いで色をつけなくてもいいことに気づかせてくれるのが「つながり」で、その中で色をだんだんと帯びてくる。言葉にできない自分を、まとまりのない表現で開示していく。そうやって、「つながる×まなびや」で、真の「つながり」の場をつくり、伴走者として生徒と「つながり」をもっていたい。  

資本主義経済の中に生きる「私」

 
 資本主義の競争社会で、より経済は効率的に人々が働くために合理的なシステムを取り入れてきた。それは、より職業を細分化し、複雑にした。一方で、人々が導入したそのシステムによって人間が働き方を決定することになった。生産者から消費者にたどり着くまで、多くの人びとを介す。そのような中で、自己の存在価値ややりがいを見出すのは難しい。やりがいといえば、仕事そのもの以外にも見出すことはできる。「家族のため」、「対価のため」。しかし、結婚、出産が当たり前という価値観はなくなり、対価よりも働き方を重視する若者も多くなってきた。さらに、人材も能力や資格によって商品化され、「私ではなくてもいい」という状況に悩まされる。「私だからできること」そんなものがあるのだろうか。さらに言えば、AIに置き換えられる仕事も出てきた。  
 私も今回のインターンの面接で「ひなただからできることは何?」と聞かれた。この問いに抽象的なことしか答えられなかった。特別なできること(can)は私にはない。これまではやらなければならないこと(must)を気にしすぎてきた。今のところ、やりたいこと(will)という自己に内在する意志によって、自己価値を高めるしかない。やりたいことが明確になっている人はそこまで多くはない。だからこそ、「私じゃなくてもできるけど、私がやりたい」ということで、押し切る。その感情的な部分が人間的で、存在価値になると感じている。もちろん、意志にともなって行動し、能力も高め、ニーズも考える必要はある。ただ、自分が本当に何がしたいのか、そのためにどう行動するのかを問いかけ続けることが、自己の唯一性を見出すことになると考えている。  
 島前は、効率化・合理化に染まりすぎていない。じっくりと対話しながら進めていく。私も、それが役に立たなくても、明確な目標がなくても、じっくりと子どもたちと対話と一緒に経験をしながら、何がしたいのか共に考えていきたい。結局、小さい「やりたい」をつかみながら、とりあえずやってみる。その積み重ねなのだから、やってみる後押しをしていきたい。  

意志ある未来をつくる「私」


  私は、生きるという哲学的な自己に向けられた疑問を、これまで教育界では当たり前に使用される「主体性」などがなぜ重要なのかを、なぜ私は困難を抱え、どのような社会に身を置いているのかを、考える必要があった。長々とそんなことを考えなければならないほど、私は生きることに不器用なのかもしれない。もっと人生は、この社会は複雑ではあるが、ひとまず自分なりの解を出してみた。その解は全く、特別で目新しい発見ではなっかたが、「自分ごと」としてとらえられるものになった。それは、子どもたちのことも「自分ごと」としてとらえることにもなった。子どもたちに何かを求める前に、私自身が「私の生き方」を実践していかなければならない。
  「安定した職に就いて、考えすぎず、仕事をこなす中で多少のやりがいもあって、好きな人とのんびり暮らす」。そんな人生も幸せなのかもしれないとよく考える。でも今は、でも、この1年は、自分の理想を、自分のやりたいことをやってみたい。この島前は魅力にあふれているし、この環境に期待もしている。しかし、やはり私は自分に一番期待している。  
 「ぜひ、未来を描いてください」。昨年の3か月の最終報告会で言ってくださった。未来は不安も付きまとうが、「どう生きるか」を考えることは、悪循環から抜け出す、一つの方法ではあると思う。まずは、新しく始まった小中の取り組みに熱を入れていきたい。結局、やるべきことは、「つながり」と「できた」をつくり、「やりたい」に伴走することではあるが、それを日常的に感じるように学習会とその他の学び共創していく。 島内外問わず、少人数の中でこれらを実現するために、まず丁寧に関係性を築きたい。   
こんなことを毎回考えると、疲れてしまうけれど、頭の片隅で、いつも
私は私に問う、「私はどう生きるか」

  
最後までお読みいただき、ありがとうございます。この意志を大切にしながら、島前での生活を楽しみ、具体的な行動に移していきたいと思います。
次は明るさと愛にあふれた慧(あきら)です。あきら、よろしくー!
 

『Hey Siri, 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
私たちは自分に問いかけができているのだろうか。
その疑問から描いたオマージュ作品です。


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