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侮蔑のスラング「義務教育の敗北」~意味・対象と教育観の考察~【教育学】

 「義務教育の敗北」は2010年代後半から使用が増えたスラングです。意味は定まっていませんが、主に小中学校で身につけるべきと話者が考える知識や価値観が欠如している他者を侮蔑する際に使われます。
 この語は一般に広く普及している語ではありません。筆者が学生に尋ねると、この語を知っていた人は1割程度でした。しかし、SNSや動画サイトで度々用いられるスラングであり、語感の良さから安直に用いられる、そして使用者の教育に対する価値観(教育観)を反映した語です。聞いた者の教育観に影響を与える可能性のある語であることから、教育学的な観点から考察する意義があります。

★本文は12月9日にバーチャル学会2023で発表した内容を含みます。

▼『バーチャル学会2023発表概要集』pp.139-142。J-stageに掲載


1.教育批判ではない「義務教育の敗北」

 この語は一見すると、学校教育を批判しているように見えます。筆者がこの語を聞いたことがない学生に「義務教育の敗北」という文字だけで意味を推測させてみると、海外の教育制度や、塾など民間教育、フリースクールなど日本の義務教育制度以外と比較して学校教育を批判する意味と推測する人が多かったです。
 しかし、SNSや動画サイトで本語の用例を見ると、学校教育を批判していないものも多いです。義務教育(諸学校)が知識等を身につけさせられなかったことを「敗北」と表現しつつ、主に教育する側ではなく受ける側を非難していることがこの語の特徴です。
 義務教育段階で得るべき知識や価値観の不足を指すのであれば、「義務教育”に”敗北」(した人)の方がまだ理解しやすいです。実際「義務教育の敗北者」という言い方も存在し、こちらは知識や価値観が不足した人が敗北した側という表現です。スラングであり細かいことは考えられず使われ、「義務教育の敗北」の語を使う者の中でも認識は異なると思われます。しかし、基本的には「義務教育の敗北」は、敗北したのは義務教育側と捉える語であることが、後述する整理した定義と用例からも伺えます。

2.辞書・百科事典サイトの定義

 文献上の定義は、この語が近年インターネットで用いられだした語であり書籍に記されていないことから、ネット上の辞書・百科事典サイトの記述を分析します。
 当然、そうした記述は学術的な文献として用いられるわけではありません。しかし、そうした記述に含まれる恣意も、スラング使用者の価値観を捉える上では重要です。また、検索上位にくる辞書・百科事典サイトの定義は、その語を調べた人の多くが閲覧する可能性があり、その記述がまた人々の認識を形成して語の意味自体に影響を与えるものです。各サイトの性質に十分留意する必要はありますが、考察する価値があります。

 「義務教育の敗北」を立項している辞書・百科事典サイトは2件確認できました。 「実用日本語表現辞典」は詳しい運営元が不明の辞典サイトですが、辞書一括検索サイトWeblioに掲載されており、検索エンジン上位にも度々登場する影響力ある(自称)辞典です。「ニコニコ大百科」はニコニコ動画に関連する項目を中心としたwiki形式の百科事典サイトであり、こちらもネットスラングなどの項目で検索エンジン上位に度々登場します。

 以下、実用日本語表現辞典の定義には、この語を用いる背景にある教育観が表れています。

一般常識や理解力が途方もなく欠如しているさまを、驚きや呆れを込めて表現した言い方。インターネットスラング。日本で一通り義務教育を受けて生きてきたのなら(どれほど馬鹿だとしても)当たり前に理解できているはずの事が、理解できていない、そのような非常識さを形容する表現。

出典:実用日本語表現辞典「義務教育の敗北」(文献①)

 話者から見て「分かって当たり前」のことを分かっていないさまを驚きや呆れを込めて表現しています。(以下、本文の「」付きの「当たり前」は全て「義務教育の敗北」の語を使用する人の認識です)
 「非常識」や「馬鹿」の意味で非難や嘲笑する際に使われる表現として、本人ではなく他の対象を差して間接的に本人を侮蔑するものは、古くから「親の顔が見たい」「お里が知れる」といった表現が存在します。こうした表現も親や地域を育てる・人を形成する土台となる立場とみなし、育てる側が悪いから「当たり前」のことができないという認識で使われます。一方で、これらは本人とともに親や地域も低く見ている表現であるのに対して、「義務教育の敗北」は必ずしも義務教育制度や学校を低く見ている・原因として批判しているわけではありません。
 この語では、義務教育は「分かって当たり前」のことを与える場である、義務教育を受けた者はそれを身につけることが自明のこととされています。以下、ニコニコ大百科の記述にもそのことがよく表れています。

義務教育の敗北とは、小学校中学校の9年間をかけても一般的な知識を与えることに失敗した様の事である。
通常、義務教育は、帰国子女などの稀な例外を除き、日本国民全員が受けているはずである。しかしながら、このタグが付けられている動画では義務教育を受けているのかも怪しい言動が見られる。それらを指して「義務教育の敗北」と評される。

出典:ニコニコ大百科「義務教育の敗北」(文献②)

 ここでは「義務教育は、帰国子女などの稀な例外を除き、日本国民全員が受けている」という前提が記されています。しかし、実際は日本でも全ての人が十分な教育を受けられているとは限りません。例えば現在、公立の夜間中学の設置が増えているように、社会には小中学校で十分に学ぶことが出来なかった人が多数いること、多くの人が学べなかった分を学びたいというニーズを持っていることが周知されつつあります。
 「義務教育の敗北」の語を用いる背景には、小中学校教育を全員が受けている、受けた者全員が常識という「分かって当たり前」の共通項を獲得するものだという教育観があると考えられます。
 ただし、その共通項がどのようなものか、道徳的な価値観まで含むかは話者によって異なります。どのようなものが共通項と考えられているか、用例調査で探っていきます。

3.動画サイトYoutubeの用例

 動画サイトYoutubeでの用例を収集しました。調査は2023年10月18日に実施し、非ログイン状態で履歴等の無いブラウザを用い、トップページから「義務教育の敗北」で検索し、表示された動画において何を「義務教育の敗北」と称しているか内容を投稿日時など基本情報とともに記録しました。(記録は文末に「Youtubeの用例調査記録」の表およびExcelを掲載しています)
 なお、複数の内容を「義務教育の敗北」と称している場合は、再生時間の中で最も早く出てきた内容を記録しました。また、記録後その内容が小中学校の学習指導要領においてどの学年に該当するか、または該当無しか調査して、表に併記しました。

知識や計算能力の不足が大半

 結果、 48本中46本が知識や計算能力の不足を「義務教育の敗北」と称しており、マナーなど態度面は2本でしか取り上げられていませんでした。動画サイトという性質上、視聴者に不快感をもたらすような態度を取り上げた動画では視聴数を得にくく動画になりづらいことが考えられるため、動画サイトの用例が「義務教育の敗北」の用例の全てではありませんが、少なくとも知識の不足を対象とする用例が多数あることは確かです。

 他者の配信の一場面を切り抜いてその様子を「義務教育の敗北」と称する動画が主でしたが、自らの知識不足や失敗を自虐的に「義務教育の敗北」と称する動画もあり、自虐にも用いられる表現でした。

義務教育の範囲外も含め様々な内容

 知識・能力の不足を対象とする46本の内容を指導要領と照らすと、小学校の範囲が27本、中学校の範囲が12本、範囲外が7本でした。多くの対象が義務教育の範囲にあるものの、「うるう年」といった文化的な事項だがどの教科の範囲でもないもの、「四則演算」といった行動自体は学校で行っているが名称が扱われないもの、「月桂樹」といった常用漢字外のもの(桂)も対象となっていました。「分かって当たり前」の範囲は人によって異なり、「義務教育の敗北」と称されるものの中には、実際には義務教育の範囲外である事例も存在しました。
 ただ、これらを扱った動画では「義務教育の内容ではない」と指摘するコメントも多く、小中学校の内容か否かはとても重要視されていました。

調査結果簡易まとめ

多い内容:算数と地図

 教科では最も対象となったのは、算数・数学にあたる内容で17本でした。(奇数など数の概念に関わる知識が12本、簡単な計算を間違えることが5本)知識を知らないことだけでなく、計算という「できて当たり前の」処理ができないことも対象となっていました(あるいは知識の不足と同一視されていました)。
 具体的な内容でよく扱われたのは都道府県の位置・名称の5件で、世界地図関連の3件を含め、社会科に当たるものの多くが地理(9件中8件)、中でも地名・地図の内容でした。特に都道府県の位置・名称は「誰も学んだ」「分かって当たり前」の共通項と思う人が多く、語の使用者にとって覚えていない・間違えた人をバカにしやすい内容と考えられます。他者を「義務教育の敗北」と嘲笑する際には、「多くの人がその内容を理解している」と多くの人が認識していることが必要です。「学校でやったけどみんな覚えてないよね」では成立しないからです。都道府県の位置・名称は、自分が覚えているか否かに関わらず「多くの人が覚えたこと」として広く知られていることが、共通項として使われやすい理由の1つと考えられます。

4.00年代「おバカ」クイズ番組との共通項

 「義務教育の敗北」の対象や使われ方は、2000年代に流行した「常識」を知らない人を「おバカ」として中心に据えたクイズ番組と共通するところがあると考えられます。クイズ番組の歴史を整理した伊沢(文献③)は、2000年代のクイズ番組ブームについて、「お茶の間が崩壊し、背景にあったカルチュラル・リテラシーもなくなった」時代の新たな「共通項」として「学校」が使われたと考察しています(p.72)。「皆が受けてきたはずの義務教育こそ、共通の話題、そして『必要である』と社会的に認められた知のひとつ」として機能し、それを知らない「おバカ」という尺度が番組に存在することで「正解不正解やおバカタレントについて『会話する喜び』が生まれ」ました(pp.72-73)。
 常識という「分かって当たり前」の共通項を獲得していないように見える者を批判する、あるいは嘲笑することをエンタメとする、そして「義務教育の敗北」を自虐として用いエンタメ化する者も現れる。この流れは、かつての「おバカ」を売りにしたクイズ番組を巡る人々の動きと通ずるものがあります。今回収集したYoutubeでの用例は2020から23年に投稿された動画のものでしたが、2000年代の「おバカ」クイズ番組と類似した消費のされ方であると言えます。

5.教育観を広げる重要性

 辞書・百科事典サイトの定義と用例の調査から、「義務教育の敗北」の語が使われる背景には、現代社会では全ての者が小中学校教育を十分に受けられている、教育を受けた者全員が常識という「分かって当たり前」の共通項を獲得するものであり、それが欠落しているのはおかしい、という教育観があると考えられます。
 しかし、 全ての者が学校教育を十分に受けられているという前提は正しくありません。社会には小中学校相当の内容についての学びのニーズを持つ者が多数おり、その学びを支える制度も存在しているのが実際です。もっとも、学校では学校や教育制度そのものについて学び考える機会はほとんどありません。小中学校で受けてきた指導などから「小中学校教育を全員が受け、受けた者全員が『分かって当たり前』の常識を獲得しなければおかしい」という教育観に至る者も多いでしょう。他者の知識能力不足に対する不寛容さを減らしていくためには、教育や学ぶことについて俯瞰して考える機会が設けられ、教育観を広げることが重要と考えます。
 もちろん、本文は小中学校が多くの人にとって共通項となる知識を与えることを否定するものではありません。市民全体の共通項であってほしい知識が学習指導要領などで設定されていると言えます。また、そうした知識が欠けている状態に対して何もすべきでないと考えているわけでもありません。先に挙げた夜間中学などいつでも学び直せる機会は広く提供されるべきであすし、そういった特別な機会でなくても社会全体が子どもも大人も学びやすい環境であるべきです。むしろ、学びやすい社会であるために、「わからない」「知らない」ことを安易に罵倒や嘲笑することに対しては注意しなければなりません。学びや疑問を大切することこそ共通項として、学校教育の中で扱われるべきものと言えます。

6.おわりに 教育やその成果は難しい

 今回収集・分析したのは用例の一部です。今回扱った用例では価値観・態度面はほとんど対象となっていませんでしたが、実際にはSNSで(語の使用者にとって)非常識な価値観・態度面を指し「義務教育の敗北」とする用例も存在します。例えば、2023年にお断りの婉曲表現である「ご遠慮ください」を「控えめならしてもいい」と考えていた人に対して、「義務教育の敗北」の語が使われたことがSNS上で論争となりました。本件では義務教育に責任を課すことの是非や、婉曲表現の是非など複数の論点があったように、価値観・態度面の用例は知識・能力の不足以上に複雑です。価値観・態度面の用例においては学校教育批判として用いられることも多く、本文で扱いきれていない面は多いです。
 しかし、学校教育が常識という「分かって当たり前」の共通項を与える、それを獲得できていないものはおかしいという教育観は共通していると考えられます。今回の用例調査で、知識面においても、必ずしも「分かって当たり前」の範囲は一致しておらず、中には義務教育範囲外の内容が対象となるものも存在しました。価値観・態度面においては、そもそも見解が分かれやすいものであること、学校での学習内容が知識ほど分かりやすく示せるものではないことを鑑みると、より「当たり前」が差すものは各人で異なってくると考えられます。

 教育の成果には見えにくいものもあり、簡単に成功か失敗か(「義務教育の敗北」においては勝利か敗北かに当たるか)断定できるものではありません。また、それぞれが受けてきた教育の質も学校・家庭・地域など環境によって大きく異なります。そして、その地点で習得できなくても学び直すこともできます。そういった広い視野での教育観を持って他者と接する方が、他者の知識等の欠如に対して呆れ嘲笑するよりも他者そして自己の学びに繋がるでしょう。

★用例調査データ(概要集訂正)

<訂正>『バーチャル学会2023発表概要集』では表のNo.を50まで記していますが、調査本数50本のうち記録では全く同一の内容を切り取った動画2本を除外したにもかかわらず、No.を調整しなかったため欠番が生じています。欠番を修正した表は以下の通りです。概要集と本文に齟齬があるものは、本文が正しいです。訂正してお詫びいたします。

「義務教育の敗北」Youtubeの用例調査記録

【引用・参考文献】

①Weblio辞書「義務教育の敗北」(2021年8月19日更新):https://www.weblio.jp/content/%E7%BE%A9%E5%8B%99%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E6%95%97%E5%8C%97 (参照 2023年10月18日).
②ニコニコ大百科「義務教育の敗北」(2023年10月17日更新):https://dic.nicovideo.jp/id/5626268 (参照 2023年10月18日).
③伊沢拓司『クイズ思考の解体』朝日新聞出版、2021年

★過去の教育学解説記事一覧


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