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卒業論文は「論文」ではない? ~卒論の目的と社会的価値~【大学教育】

 多くの大学生は最後に卒業論文に取り組みます。卒論とレポートは違うんだと散々言われ、厳密に決められた様式と期日を守り、苦心の末に完成させます。しかし、提出後の卒論の扱いは多くの場合「論文」とは言い難く、二度と日の目を浴びずそれっきりという場合が大半です。昔はともかく、情報の保存や共有の手段が多彩な現代でも、過去の卒業論文の閲覧はほぼできません。せっかく学術的活動を行ったのに、その後の学術の発展に一ミリも寄与しないのは悲しい所です。
 今回は卒業論文とは何なのか、論文と呼べるのか整理します。


1.卒業論文は教育上の課題・授業科目(≒論文ではない?)

 「卒業論文」は厳密な定義がある語ではありませんが、以下の通り、法令上も運用上も授業科目として扱われています。

大学における卒業論文は、「卒業論文、卒業研究、卒業制作等の授業科目については、これらの学修の成果を評価して単位を授与することが適切と認められる場合には、これらに必要な学修等を考慮して、単位数を定めることができる」(「大学設置基準」第二十一条)とされたものであり、すぐれた社会人、あるいは教員養成課程においてはすぐれた教育者になるために、一定の課程にしたがって主体的に学び、身につける「学修」として行われるものである。このことから、卒業論文は、一般の研究論文とは異なり、つまり研究論文としてカウントされる論文とは異なり、教育課程に基づいて教員によって指導される授業科目である。(太字は引用者)

出典:今津・黒田(2022)p.35(文献①)

極々単純に言えば「卒論は大学の授業科目であり論文ではない」となります。論文ではないから広く公開する必要もない、大学が保存するのは小中高が指導要録(氏名や成績などの記録)を保管するのと同じ教育行政上の意味であり学術的な蓄積のためではない、と言えます。

2.基本非公開・保存5年

 実際、平井(2005)の調査によると、多くの大学は卒業論文を不開示とし、保存期間を5年としています。以下の通り、卒論は行政上長く保存する必要性がないため、短い保存期間となっていると考察しています(文献②)。

卒業論文などの保存期間が短いのは、業務での必要性に応じて現用としての期間を短く考えているので、あって、その文書等が歴史的あるいは学術的に重要ではない、ということを意味しているのではない。(中略)成績評価は大学の業務で重要な事柄だが、その結果はともかくその過程がのちに参照されるという可能性が、大学の業務としては、低いと考えられているからである 。成績証明書や在籍の証明書が発行できるようにしておければよいのであって、 試験答案やレポート、あるいは教員と学生が交わした文書などの長期の保存は、サンプル的なものも含めて考えられてはいない。

出典:平井(2005)p.27(文献②)

 卒論の規定は大学ごとに任されており、保存方法には主に(1)図書館や文書館で一元的に管理、(2)学部・専攻単位で管理、(3)各教員が管理、の3パターンがあります。しかし、どの方法でも期限切れの破棄や、期限を待たずして散逸する事例が多々あります(文献③)。過去には物理的に保存しきれないという点はありましたが、デジタルアーカイブとして技術的には保存・公開可能な現代であっても卒論の扱いは議論されているとは言えません。過去の卒論は学生であっても閲覧できない場合が多いです(※)。

3.教育の一環としても個々に一任(適当)

 では、学術の発展ではなく教育としてしっかり考えられているかというとそうでもなく、教育の一環としても卒業研究に関する学術的研究はほとんどありません(文献④)。各大学や各学部で時に細かい要件を定めているものの、対外的に比較する必要性がないので、その要件の妥当性は検討されることはほぼありません。
 以下の通り、研究スキルと専門知識を持つと社会に示す「学士」認定の根拠として、また教育成果の集大成として卒論があるからには、本来はその質を示す確たる証拠として必要があれば示されなければならない、そして卒論は一学術的成果として活用できうるものであるべきという主張もあります。

卒論を作成させることが、学部の教学の根幹であり、学士認定の根拠であると、広く社会に対して宣言している。また、卒論も、「ささやかながら研究」である以上、それはただ書かれて終わりのものではなく、学術的な成果として広く社会に受け継がれ、未来に活用される対象になってこそ、意味のあるものだろう。卒論の存在と蓄積は、その大学や学部の教育実績を示す何よりの財産でもある。
 このことから、卒論は、常に社会の検証に耐えられる状況、つまり常時完全公開がされるかはともかく、適切な問い合わせがあった場合に閲覧に耐え、それを作成させた学部や教員の教学が一定の水準に達していることを証明する証拠として、あるいは純粋な学術的成果として活用できる状態にある必要がある。卒論が学部教育の集大成であるなら、その大学・学部の卒論を一読させることが、その教学の質を最も雄弁に伝える方法となるはずである。しかし、もしその質を示す確固たる証拠が紛失したり、散逸したり、死蔵され誰の目にも触れられないのなら、それは大学が社会的責任を果たしていないだけでなく、証拠を示さないまま教学の質を「学位授与方針」等で誇るという詐欺的行為とすら捉えられかねない。

出典:近藤(2014) p.2(文献③)

 大学の学士を一定の学術研究能力を有するものとして、そして卒業論文を論文の一種として捉えた時、上記の指摘はとても正しいものと言えます。しかし、実際には卒論はもっと軽いものとして扱われています。例外として、個々の研究室で卒業論文の内容を研究室紀要に載せるなど、論文の形で公開すれば別ですが、基本的に卒論は見ることもできないので、社会的には論文とは言えない状況です(内容面が論文足りうるか、各大学の認定が妥当かは基本公開されていないので検証できません)。

4.「レポートじゃなく論文」という卒論指導

 しかし、大学での卒論指導の中では、卒業論文は科学研究活動であり論文であると言われます。以下は京都大学でのガイダンス資料ですが、卒業論文は科学研究活動であると述べた後、科学研究活動では論文の形で成果を発表して残すことが重要とされています。

卒業研究の結果をまとめた卒業論文は、大学生活の集大成であり、多くの学部生にとっては最初の科学研究活動の成果でもあります。大学院へ進学する人にとっては、これから始まる科学研究活動の入り口です。また卒業後、就職する人にとっては、卒業研究は、最初で最後の科学研究活動かもしれません。だからこそ、科学研究が出来る、この機会を大切にしてください。

出典:京都大学研究公正教育小委員会「卒業論文作成へ向けて」2015年 p.3(文献⑤)

科学研究活動とは(3)
3)研究成果を発表する
科学者の研究成果の発表は次の研究に土台となるだけではなく、人類の知識を深め、文字となった論文や報告は世代を超えて継承される財産となります。さらに、先行研究業績の権利(著作権)を守り、尊重することは科学者として極めて重要となります。

出典:京都大学研究公正教育小委員会「卒業論文作成へ向けて」2015年 p.6(文献⑤)

なお、京都大学では卒業論文の扱いは各研究科の図書館などに任されており(文献⑥)、一部所蔵があり申請して閲覧可能な図書館(文献⑦)と、保存していないと明言している図書館があります(文献⑧)。一般的な大学の卒論の扱いと変わらず、特別卒論公開に力を入れてはいません。ガイダンス内容も多くの大学で話されることと思われます。

 論文の書き方を示す本においても、卒業論文は論文として扱われています。

12 学術論文を書く
 本書を学んだ成果として、研究論文、学術論文、科学論文、とりわけ卒業論文や博士論文の準備をさせる場合もあるでしょう

出典:狩野(2015) p.141(文献⑨)

 卒業論文はよくレポートとの違いで説明されます。例えば、岸野など(2008)は卒論は、目標を各個人で設定し、検証・裏付けが必須、意義(新規性)がある文章としています。対して、レポートは目標は指導者から提示され、課題に対する理解を深めるための文章としています(文献⑩)。
 
 総じて、卒業論文は論文として書くことが求められると言えます。文章自体は論文だけれども、先述してきたように扱いは論文ではありません。しかし、それを明言してしまうと学生のやる気を削ぐからでしょうか、多くの大学では提出までは色々言いながら、提出後の卒論の扱いについては説明しないという何ともスッキリしない存在が卒業論文となっています。

5.歴史:「大学生たるもの本来は卒論を書くべき」論は昔から

 卒業論文はどの大学・どの学部も課すわけではありません。「卒業論文も書かせない大学は、学術・研究を学ぶ場所という大学本来の役割を果たしていない」といった意見が出ることもありますが、これは今に始まった話ではありません。
 現在の大学制度(新制大学)は1948年に始まりましたが、49年に旧制高校や高等師範学校由来の新たな大学が多数できました。50年代には、そうした大学の中に卒業論文を課さない大学があることが旧帝大から批判されているという文章が残っています。

 最近一部の大学では、卒業論文を随意制にし、必ずしもこれを提出しなくとも単位を以て代ることができるように改めたが、これに対し、とくに旧帝大文学部あたりから、このようなことは、さらに学力の低下を招くと反対されている。
 新制度となって、専門課程はわずか二年間となり、これが学生にとって論文執筆には短すぎ、ろくでもないものが多いというのが実情である。それよりもむしろ講義を余計にきき、実社会に出た方がより有効ではないだろうか、というのが廃止論の有力な根拠のようである。(引用者注:1991年以前は教養課程2年、専門課程2年と教養と専門を区別していた)
 新制度になった日本の大学で不思議なことは、旧大学令第一条に掲げられていた「学術のうんおう(引用者注:蘊奥【うんおう】学問・技芸などの最も奥深いところ)を究める」という方針が依然として強く主張されていることである。旧制度の三年課程ですら学術のうんおうは愚かその片鱗に接することができればよい方であったのだから、現在の学生にそれを望むのは無理である。
 もっとも根本的なことは、学術のうんおうなどということは新制大学の目標ではないということを、教授も学生もよく知らないということだろう。矢内原東大前総長がいっているように、新制大学は一個のできた専門家をつくるのではなく、むしろ幅の広い社会人を要請し、専門を極めるための潜在的実力を備えしめることが、真の目標でなければならない

出典:中屋(1958) pp.154-155(文献⑪)

上記の文章では、新制大学の目的は研究者養成ではなく、卒論を必ず書くべきというのはお門違いという主張がなされています。実際、文部省(当時)が1964年に記した本では、新制大学制度のおいては卒業論文が原則として廃止されたと書かれています。

卒業すなわち学士号授与条件については(中略)卒業論文の制度は原則として廃せられ、大学が最終学年の学生に論文または卒業制作(芸術に関する学科などの場合)を課する場合には124単位の中に含ませることとされている。

出典:文部省編『わが国の高等教育』1964年 pp.43-44(文献⑫)

 なお、この頃の文章の書き方解説本においても、現在と同じように卒業論文はレポートと違う論文であると記されています。卒論と建前と実質の扱いが違うのは半世紀前も変わらないのかもしれません。

 大学四年になって卒論を書く学生は、そのまえの三年間に、たいていは何度かレポートを提出しているだろう。何回かレポートを書いた経験から、レポートを引き延ばせば論文になる、そう早合点する学生が少なくない。(中略)
 レポートは教師の検閲がすむと、レポーターに返えされるが、教師の手元で処分されるかして、二度と日の目を見る機会が滅多にない。しかし、論文は保管・公表される場合が多い。
 提出された論文は、大学なり学部なりの提出先に長く保管されるのがふつうである。ときには、ちゃんと製本して、図書館の蔵書に加えられる。いっぽう、大学・学部が発行する紀要・研究雑誌の類で、論文の題目ないし要旨が公開される。”見たい人、読みたい方にはご覧に入れます”そういう意志表示である。(中略)
 いつまでも保管され、いつでも公開される論文は、いってみれば、論者の研究能力の消すことのできない足跡である。論者が、将来も引き続いて研究者としての生活を送る人なら、古い失敗を新しい成功で埋め合わせることもできるだろう。(中略)
 が、一度に一生しか論文を書く機会がない学生も少なくない。いや、大多数の学生は、むしろそういう人だろう。

出典:三浦修『論文・レポートの書き方』1965年 pp.145-146(文献⑬)

 では、戦前は全ての大学で卒業論文を課していたのかというと、そうでもないようです。例えば、以下は医科大学・医科専門学校においても卒業論文を課すべきという1920年に記された主張です。当時は、それまで医学の大学はほぼ帝国大学医学部のみで他は専門学校だったのが、1918年大学令により医学専門学校の大学への昇格が進んでいく時期でした(文献⑭)。

現今の制度によると、医科大学及医学専門学校に於ては、卒業論文と云ふものなしに卒業すれば直ぐに医学士若しくは冠附医学士と称する事になって居る。勿論比較的完全な学校で、一般医学を履修したのであるから、卒業したら医師たる事を認許するは尤もの次第であるが、荀も(引用者注:【いやしくも】仮にも)学士という特殊の称号を与へると云ふ事に対しては相当の研究的業績がなければなるまいと思ふ。

出典:前田(1920) p.7(文献⑮)

 いずれにしても、卒業論文を課さない大学もあるのはここ近年だけの話ではないということです。

6.おわりに 学部生の知も活かすべき

 現在の卒論の扱いを続けるのであれば、卒業論文は授業科目であり論文ではないと明言してしまった方が誠実でしょう。しかし、せっかく論文として指導し、学生が学術研究に取り組むのですから、その知を公開して学術に貢献するようにした方が良いでしょう。学部生の卒論のレベルが学術的価値を生み出すものでないと考える人もいるでしょうが、中には質の高い研究もありますし、卒論の中途半端な扱いが学生のモチベーションを下げている面もあると思われるので、公に残されるものだという意識があれば良質な卒業論文は今より増えるでしょう。また、公開するとなれば、審査が形骸化して形式さえ守り出せば通過だった大学・学部・専攻でも、他者の目に耐えうる審査や指導を行うようになるでしょう。
 卒業後は学術研究と無縁に生きていく学生の卒論であっても、Wikipediaの一項目を立項・充実させるものには十分できます。一卒論はほんの小さな成果でも、毎年何万人となればこの世界の知を少しより深められるでしょう。どんな研究がどこで活かされるかわかりません。卒論を見た誰かがそれを大きく発展させるかもしれません。昔は物理的制約がありましたが、今は大量の卒論でもアーカイブ化可能です。それをしないのは勿体ないと思います。
 過去の分は著作権の問題等もあり許可を取るのは大変ですが、今からでも遅くありません。当然公開の体制を整えても査読論文と同等とはなりませんが、その卒業論文を書いた学生を学士と認める大学が、卒業論文を学術的価値がある可能性があるものとして取り扱い公開することは、学術を深める・世に広めることにも繋がりますし、大学が教育機関としての成果を堂々と世に示すことにもなると思います。

【注釈】

※ 過去の卒論全て(戦中など保存できていないものを除く)を申請があれば学生には公開している小樽商科大学は、2022年度よりPDFでの提出・保存とした。ただし、「卒業論文、修士論文は、一般公開資料ではない」ことが明言されている(文献⑯)。

【参考文献】

①今津尚子・黒田耕司「女子大学における卒業論文の教育課程に関する研究」『九州女子大学紀要』58(2)、pp. 35–41、2022年
②平井孝典「国立大学法人における卒業論文の扱い―著作物でもある法人文書等の公開 (利用) について―」『アーカイブズ学研究』3、pp. 12–30、2005年
③近藤暁夫「学部卒業論文の管理・保管体制の現状と課題ー愛知大学地理学専攻を中心にー」『愛知大學文學論叢』150、pp. 1–17、2014年
④和田正法「日本の学士課程における教育の一環としての研究── 卒業研究の特徴と課題──」『創価大学 学士課程教育機構研究誌』3、pp. 117–132、2014年
⑤松井啓之(京都大学研究公正教育小委員会担当委員)「卒業論文作成へ向けて」京都大学工学部物理工学科機械システム学コース ガイダンス資料、2015年
⑥京都大学図書館レファレンス・ガイド:https://www.kulib.kyoto-u.ac.jp/modules/refguide/docs/RefGuide_DocThesis.pdf(参照 2023年12月1日).
⑦桂図書館「学位論文の利用」:https://www.t.kyoto-u.ac.jp/lib/ja/guide/dissertation (参照 2023年12月1日).
⑧京都大学文学研究科図書館「学位論文の探し方」:https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/lib/research/paper (参照 2023年12月1日).
⑨狩野光伸『論理的な考え方伝え方:根拠に基づく正しい議論のために』慶應義塾大学出版会、2015年
⑩岸野清孝・山田尚史・佐々木桐子『卒業論文の作り方複合領域分野における経営学研究の進め方』静岡学術出版、2008年
⑪中屋健一『大学と大学生 : 入学から就職まで』ダヴィッド社、1958年
⑫文部省編『わが国の高等教育 : 戦後における高等教育の歩み』大蔵省印刷局、1964年
⑬三浦修『論文・レポートの書き方』実業之日本社、1965年
⑭坂井建雄・澤井直・瀧澤利行・福島統・島田和幸「我が国の医学教育・医師資格付与制度の歴史的変遷と医学校の発展過程」『医学教育』41(5)、pp. 337–346、2010年
⑮前田珍男子『藪雀』前田珍男子、1920年
⑯小樽商科大学附属図書館HP「学生の方」:https://library.otaru-uc.ac.jp/student/ (参照 2023年12月1日).

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