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自称進学校:スラング”自称進”には高校普通科教育の閉塞感が凝縮されている【教育学解説】

 「自称進学校」というスラングをご存知でしょうか。主に高校生が自身の通っている高校を自虐的に批判する際に使われます。「学校・教員は"進学校"と称しているが、実態や実績は”進学校”と呼ぶに値しない」と生徒が考える時にこの語が使われます(現在は転じて他虐にも使われることはありますが、元は自虐表現だと思います)。
 筆者が高校生だった2010年頃には高校の中で自虐的に使われていました。Twitterを検索すると用例が2009年から増えており、恐らく2009年頃に広まったと考えられます。なお書籍・論文・ネットニュース記事など文献では2019年頃からしか発見できませんでした。しかし、既に少なくとも15年くらいは高校生の間では使われている語です。
 この語が生まれる背景には、「進学校」に対する教育行政・教育学での意味と高校生の認識に乖離がある、という状況があります。今回は、「自称進学校」「進学校」の語の意味や使われ方を整理します。


1.入試難易度は問わない研究上の「進学校」

 教育学分野での研究において「進学校」は、「卒業後の進路が大学進学を主としている高校」くらいの意味で使われています。以下は各研究での進学校の定義です。対照的な存在とされる「進路多様校」なども設定されている場合はそちらも載せています。

・質問紙調査の進路希望で、95%以上の者が四年制大学以上の学校を希望している(有海2011 p.188、文献①)
・新卒者の50%以上センター試験(当時)を受験している高等学校(中畝など2003 p.12、文献②)
大学進学率80%以上(吉利・村上2018 p.501、文献③)
・進学校:大学進学率80%超、中堅校:50~80%、進路多様校:50%未満(眞田2018 p.71、文献④)
大学進学率が80%以上の学校を「進学校」、20%より大きく80%未満の学校を「進路多様校」、20%以下の学校を「非進学校」(藤原・河村2014 p.14、文献⑤)
・卒業生の4年制大学進学率が90%以上を「トップ進学校」、50-90%を「進学校」、50%未満を「進路多様校」(山下2011 p.90、文献⑥)

 割合は違いますが、いずれも大学進学率(または進学希望)を参照しており、おおむね80%くらいあれば進学校としています。大学の入試難易度は参照されていません。これはスラング「自称進学校」を使う人にとっては、大変違和感のある基準でしょう。語の使用者にとって「無価値」な大学への進学も基準に含まれているからです。

2.古くからある語「進学校」、大学進学率の上昇

 進学校という語は少なくとも半世紀以上前から、現代と同じような形で用いられています。以下のように、指導の中で進学校であることに言及する、それに対して生徒が反感を持つということも、古くからありました。

 進学校といわれる高校は問題が多い。高校生活に疑問を持ったり、受験勉強に反発したりするとき、学校は耐え難いところとなる。
 「”勉強のできない者は魅力がない、なにせ本校は進学校として有名なんだから”と、勉強だけが高校生活でないと反感を持った。先生たちのいやな面ばかり目についた」

出典:岡本善之「回想文にみるよき教師像について」1972年 p.9(文献⑦)

 また、1970年の研究では、大学進学率70%超を進学校、30-70%を「中間的性格」「どちらともいえる」、30%未満を非進学校としています(文献⑧ p.18)。70年当時は18歳人口の大学進学率が17.1%でしたが、50%を超えた2009年以降の研究とあまり変わらない区切り方をしています。
 昔は大学進学の希少性が現在とは異なりました。1990年代の大学設置規制緩和により4年制大学が増加し、大学の質や金銭面を考慮しなければ高卒者なら誰でも大学に入学が可能となりました。

図:大学進学率推移(縦軸が%、横軸が年度)

 大学進学自体は極端に言えば何もしなくても可能となり、大学進学だけでは価値がない、と考える人が増えました。大学の質を考慮しない進学率は、研究上はともかく大学進学を目指す高校生にとって、高校の質を示さないものになったのです。
 なお、高校普通科の大学進学率は以下の通り、近年は7割近くになっています。区分によっては、普通科の多くは「進学校」とも言えます。

図:大学進学率 昭和30~平成7年(青:普通科・桃:職業科)出典:文科省HP(文献⑨)
図:大学進学率 平成18~令和4年(青:普通科・桃:職業科)出典:文科省HP(文献⑨)※

3.ネットの普及で浮き彫りになった「進学校」の差

 元々、都市と地方では大学入試に関する情報や指導の差はありましたが、差を具体的に感じられるのは、そうした情報に触れられる大手塾に通う一部の生徒くらいでした。ところが、2000年代ネットの普及に伴い、塾に通わない高校生であっても、自らが通う高校が遠く及ばないような「進学校」の情報を簡単に手にすることができるようになりました。
 進学実績の差もありますが、自らの学校の指導への反感が「自称進学校」の語が広まる大きな要因でした。高い進学実績を上げる「進学校」生徒の効率的な学習に比べ、非合理的な長時間学習を美徳として一律に課すなど指導が劣る、でも実績は劣る、そのくせ「進学校」生徒としての自覚を説教される…。比較対象がない時代であれば仕方ないと思っていた者でも、比較され指導の非合理性・非効率性が浮き彫りになれば、当然不満を感じます。そうした不満を抱えた生徒に、自身の通う高校を揶揄する「自称進学校」の語がピッタリはまったと考えられます。

4.「自称進学校」の認識はそれぞれ

 学術研究においては、近年ようやく「大学生の語り」として現れ始めました。上述したきたように「進学校」の定義も定まったものではありませんので、「自称進学校」もまた人によって認識が異なってきます。

当時は、ぼんやりと「大学」としか進路の選択肢を知らなかったです。僕の出身校は自称進学校だったし。

出典:岸康太「大学生の『不本意入学』と学生生活」2023年 p.87(文献⑩)

一般に難易度の高い大学に進学している生徒が多い学校を「進学校」、ほとんどの生徒が四年制大学に進学しているような学校を「自称進学校」と使い分けていた。「進学校」は偏差値70以上で「自称進学校」は偏差値60くらいと表現した者もいれば、偏差値55で「自称進学校」と表現している者もいた。

出典:小形美樹「短期高等教育機関における教育の現状と課題」2019年 p.114(文献⑪)

 近年は塾・大学入試関連の書籍でも「自称進学校」について言及されるようになっています。そこでも定義は様々で、以下の引用に「なんちゃって進学校=自称進学校」とする書籍がありますが、人によっては2つが区別される場合もあります。

彼の高校は都心部の進学校ではありません。偏差値60を切る地方の「なんちゃって進学校」(以下、自称進学校)でした。

出典:濱井正吾『浪人回避大全』2022年(文献⑫)

私が通っていた高校は、地方によくある『自称』進学校でした。田舎の公立進学校って大抵そうだと思うんですけど、地元国公立大至上主義で、そこに進むことをめちゃくちゃ勧められるんです。

出典:千駄木雄大『奨学金、借りたら人生こうなった』2022年(文献⑬)

「自称進学校」と呼ばれる、大量の課題や補習で生徒を管理するところもあります。

出典:伊藤敏雄『[いとう式]高校勉強法』2023年(文献⑭)

 いずれにしても、「自称進学校」は個人の認識であり俗称なので、「自称進学校」と「進学校」を分ける明確な区分が存在するわけではありません。卒業生の大学進学実績、高校入試難易度で見た生徒の学力、指導内容など、何を基準とするかはそれぞれ異なります。ただ、「自称進学校」という語を使う時、対象とした高校を劣った存在であると思い、上位に真の「進学校」という存在を想定しているとは言えるでしょう。

5.「自称進学校」の語には高校普通科教育の閉塞感が凝縮

 筆者自身も地元の公立高校で、「進学校」としての誇り、受験は団体戦という思想、学年で国公立大学進学5割という目標を事あるごとに説かれ、塾のことを目の敵にして当然学校が全てなんだという指導を受けました(でも予備校講師を進路講演会に招くなど整合性は取れていませんでした)。一方で、買わされる数学青チャートに3~4人しかついていけない(私もついていけない勢)自分のいる文系クラスの惨状を見て、また学校の授業や課題で身に付かなかったことが(映像授業の)塾や自分たちのテスト勉強なら身に付くなどの経験で、「学校の理想と生徒の現実はまるで違う」と思い「自称進学校」の語もある程度共感していました。補習は任意だったのでほぼ参加しませんでしたが、これで時間的拘束も厳しい学校なら、さらに身に染みていたかもしれません。
 職業高校や進路多様校、通信制や定時制など同世代にも様々な人がいることを知れば、「進学校」という呼称が決して誤りではないこともわかります。しかし、同世代の就職のことなど全く知らず、大学進学に関わる数値だけを見ればよい、より高レベルの大学への進学が良いという価値観が支配する環境で育てば、そんなことは知る由もありません。すると、(その尺度で見て)より良い学校のことを知れば、当然自分たちを矮小化します。学校への不満と合わさって「自称進学校」という呼称で自虐する、そうした価値観は、その高校の環境が育んでいるものであるとも言えるでしょう。
 必要なことは、もう一度旧制中学時代の地元エリートの誇りを取り戻そうという話では全くありません。指導が合理的か見直していくことももちろん必要ですが、同世代の他の高校生が歩んでいる多様な進路について知ることも大切だと思います。仮に大学進学するとしても、その後社会に出る上でも色々な人・色々な境遇を知っておくことは重要です。高校普通科が拘束時間だけ長い劣化版学習塾ではなく、社会に出る者を育てる中等教育機関として、出来ること・見直せることが沢山あるのではないかと思います。

【注釈】

※出典元の文科省HP(出典⑨)では2つの図は一つにまとめられていた。本来は切り取ることは望ましくないが、本図は先に引用した横軸5年ごとのグラフと、後に引用した横軸1年ごとのグラフというスケールの違うグラフが一まとめにされている不適切な図だったので、本文では二つに分けて引用している。

【参考文献】

①有海拓巳「地方/中央都市部の進学校生徒の学習・進学意欲── 学習環境と達成動機の質的差異に着目して──」『教育社会学研究』88、pp.185-205、2011年
②中畝菜穂子・内田照久・石塚智一・前川眞一「進学校における大学受験に関する意識と学内成績及び性別との関係」『進路指導研究』21(2)、pp.11-22、2003年
③吉利宗久・村上理絵「高校生の発達障害に対するイメージ、知識及び意識の実態と傾向:『進学校』における質問紙調査を通して」『LD 研究』27(4)、pp.500-510、2018年
④眞田英毅「高校進学における学校外教育の効果――低階層の子どもたちの教育達成――」『社会学年報』47、pp.69-82、2018年
⑤藤原和政・河村茂雄「高校生における学校適応とスクール・モラールとの関連―学校タイプの視点から―」『カウンセリング研究』47(4)、pp.196-203、2014年
⑥山下仁司「高校・生徒からみた高大接続の課題と展望:高大接続の真の課題は何か」『高等教育研究』14、pp.87-106、2011年
⑦岡本善之「回想文にみるよき教師像について」『麻布獣医科大学教養課程研究報告』8、pp.1-20、1972年
⑧荒井貞光「運動部の社会学的研究における視点の設定について」『九州大学体育学研究』4(3)、pp.13-21、1970年
⑨文部科学省HP「普通科・職業学科別進学率就職率」:https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/shinkou/genjyo/021202.htm(2023年12月7日参照)
⑩岸康太「大学生の『不本意入学』と学生生活:目的意識の獲得に着目して」『九州大学教育社会学研究集録』25、pp.81-96、2023年
⑪小形美樹「短期高等教育機関における教育の現状と課題:大学編入生へのインタビュー調査から」『研究紀要青葉』10(2)、pp.105-115、2019年
⑫濱井正吾『浪人回避大全:「志望校に落ちない受験生」になるためにやってはいけないこと」日本能率協会マネジメントセンター、2022年
⑬千駄木雄大『奨学金、借りたら人生こうなった』扶桑社、2022年
⑭伊藤敏雄『[いとう式]高校勉強法』大和出版、2023年

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