斎藤喜博先生の告白/林竹二先生の伝聞

斎藤先生の最晩年の論文に、こういうくだりがありました(記憶に基づく要旨で
す)。

ある教育に関することで、大発見をしたと思って発表したけど、他の文献にすでに書かれていたーというようなこともあります。
先人の文献を当らなかったという問題点はありますが、そもそも、自分が大発見したと思ったことを、すでに先人が発表されていた。
がっかりするのが普通だと思うが、考えてみれば、一人で研究したものなど、そんなにすごいことなどあまりないのではないかーと。
逆に、先人も研究していたテーマと重なったことは、それだけ、大事な問題という証拠にもなるのかもと。
―何事にも、強気の斎藤先生でも、そういう振り返りがあるのは、晩年に書かれたも
ののよさではないか、と深く心に残りました。

もう1点、斎藤先生の系譜で、後に宮城教育大学の学長になられた林竹二先生がおられます。
(後にはどうも喧嘩別れのような状態だったと聞いていますが)

林先生が教壇に立つと荒れた生徒も浄化され、授業の感想文なども、感謝に溢れてい
るとご本人も書かれています。
で、一度、部落の生徒が多いといわれる夜間高校に参観に出かけました。

たしかに、熱心に耳を傾ける生徒もいましたが、寝に来たのか?というような最初から最後までスリーピングタイムを決め込んでいる生徒もちらほら。
昼間働いているのだから、給食後は寝たくなりますよねーと思いました。
でも、感想文は、私のようなはねっ帰りは皆無。
皆さん、仙台からわざわざ尼崎まで来て授業をされる老教授には敬意を盛り込んでおり、彼らの(女子はほとんどいなかった)優しい性格が露出していました。

ところで。
あの、こういうエピソードは時効にすべきかなとは思いつつ…。
出版社としてはぬぐいがたい不信感をもった案件があります。

先輩からのまた聞きです。
林先生の官舎に原稿依頼にのこのこ仙台まで出かけた江部先輩。
原稿の話に入る前に、

・印刷所は、凸版印刷にすること。
・校正は、指定する人にすること。
・発行部数は、5000部にすること。

などの条件を並べられたとか。
こちらも、長年取引している印刷所があるので引き下がれないということになって、肝心の企画編集に入る前に、

「わかりました。この条件ではとてもウチでは対応出来ません。さようなら」

となったとか。
手土産にもっていった「ジョニ黒」(当時、人気のウイスキーで9000円ぐらいした高級品―今や3000円程度でしょうが)を置いて帰ってくる途中で、奥方が、「これは受け取れません」と飛んできたとか。
―そのウイスキーの運命?どちらが飲んだのか、聞きそびれたこと今、思い出しました。


うまそう!

(文責:経験豊かが尊ばれず?の世を嘆いているHさん)

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