いきのこり日本美術史vol.1 雪舟等楊
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いきのこり日本美術史vol.1 雪舟等楊
いきのこり日本美術史の初回を飾る画家は、雪舟(1420年〜1506年頃)です。
日本美術に特別詳しくなくても、雪舟の名前を知らないという人はいないでしょう。画聖と呼ばれたり、小僧時代に足でネズミの絵を描いた逸話が語られたり、とにかく「すごい画家」の代名詞的存在です。
でもその生涯を見ていくと、伝説上の人物から、苦労しながらもがいた一人の人間にだんだんイメージが変わってくるはずです。さて、雪舟はどんな手段で画家として生き残りを図ったのでしょうか。
そもそもなぜ、初回に雪舟を取り上げるかというと、彼の時代あたりからようやくはっきりと画家の活動の実態が分かるようになるからです。
もちろんそれ以前にも名前が残る画家はいます。平安時代に《伴大納言絵詞》(国宝、出光美術館蔵)を描いたとされる常磐光長や、鎌倉時代に似絵(にせえ、似顔絵のこと)を得意とした藤原信実、はたまた雪舟の師匠筋にあたる如拙や周文などなど。
ただ、残念ながら彼らの創作に関しては断片的な史料と作品しか残らず、彼らが画家としてどのようなトライアンドエラーを重ねたのかを詳しく知ることはできません。雪舟の直接の師となる周文にしても、確実に真筆といえる作品はいまだ見出されていません(周文もしくは周文周辺の画家が描いたと考えられる、という意味の「伝周文」作品はそれなりにあるのですが)。
さて、それでは雪舟について語っていきましょう。
雪舟の前半生はまだ分からないことも多いのですが、備中国(びっちゅうのくに、今の岡山県)に生まれ、最初は宝福寺という寺に入って禅僧として修行をし、20代後半から30歳ぐらいのどこかで京都の相国寺に移っています(京都の東福寺に身を寄せた時期があるとも言われています)。
そう雪舟はお坊さんなのです。相国寺では来客の対応などをする「知客(しか)」という役職についていました。
ここでちょっと注釈をつけないと、「お坊さんがなんで画家?」と混乱してしまいますね。これは全く珍しい話ではなくて、当時の日本で本格的な水墨画を描いていたのは禅宗寺院のお坊さん(禅僧)たちだったのです。
ご存じの通り水墨画という技法は、中国で発明され高度に発展してから日本に伝わったのですが、水墨画を含む中国文化の受け皿となったのが禅宗でした。平安時代末から鎌倉時代にかけて、中国の禅僧が日本にやってきて禅宗を伝え、また日本からも多くの禅僧が中国に留学しました。そして禅の教えとともに、漢詩文、書画、工芸、茶の文化など最先端の中国文化を日本に伝えたのです。こうして鎌倉時代から南北朝時代にかけて、禅宗寺院の僧侶たちが本格的な水墨画を描くようになったのです。ちなみに絵を専門的に描く禅僧を画僧と呼びます。
室町時代になると足利将軍家が禅宗を積極的に受容するようになり、三代将軍足利義満は禅宗寺院として相国寺を創建しました。つまり相国寺は将軍の直轄寺院であり、室町幕府という権力の中心と非常に強いつながりがあったのです。
相国寺は数百人の僧侶を抱える大寺院となり、その中には将軍からの依頼で絵を専門的に描く画僧がいました。それが《瓢鮎図》という作品で有名な如拙であり、将軍の邸宅の襖や屏風に絵を描いた周文でした。特に周文は弟子達を動員して、数多くの絵画制作を行っていて、幕府御用絵師となりました。つまり、当時は相国寺の画僧たちこそが画壇・芸術アカデミーの中心として君臨していたということです。
すこし前置きが長くなってしまいましたが、雪舟が相国寺に入ったのは、そんな周文が活躍していた時代です。雪舟は相国寺という中央画壇のど真ん中に入ってから、本格的な絵の修行を始めたと考えられています。先ほど述べた通り20代後半から30歳ぐらいに相国寺に入ったと考えられるので、画家としてはだいぶ遅いスタートです。
さて、雪舟は晩年に描いた絵の中に「私の祖は如拙であり周文だ」という言葉を書き残しています。でも如拙とは直接世代が重なっていませんし、周文からもどこまで直接絵の指導を受けたかは疑問です。何せ数百人規模の僧侶がいる大寺院でしたから、雪舟もその中の一人でしかありませんでした。
実際、周文の後に幕府御用絵師の立場を継いだのは、雪舟ではなく小栗宗湛であり、さらにその次は狩野正信(狩野派の祖となる人)でした。雪舟は画壇ヒエラルキーのトップ・オブ・ザ・トップともいえる幕府御用絵師に着くことはなかったのです。着かなかったのか、着くことができなかったのか、本当のところは分かりませんが、少なくとも周文に「自分の後釜は是が非でも雪舟にしなければ!」とまでは認められなかったということです。
ここで終わっていたら、雪舟は周文の数多くの弟子たちと同様に、その名前は忘れられていったはずです。でも、そうはならなかった。
ここで雪舟がとった行動がひとつめの【いきのこりポイント】です。
雪舟は、30代半ばで京都からいきなり周防国(すおうのくに、今の山口県)へと下るのです。中央画壇そのものとも言える相国寺を離れ、最新の文化を享受できる都会を捨て、縁もゆかりも無い山口に移住するという非常に思い切った行動です。皆さんはそんなことができますか。
山口で雪舟を庇護したのは、西国の守護大名である大内氏でした。京都にいる時に大内氏と接点ができ、おそらく懸命に自分を売り込んで後ろ盾が得られるという目処がたったからこそ、山口に下ったと考えられます。とにかく「ここ(京都)にいては駄目だ!」という強い気持ちがあったのでしょう。流行の場所、最先端の中心地にいればそれで安心、とは考えなかったところが雪舟のすごいところです。
そして山口に下ったことで、雪舟に大きなチャンスがやってきます。水墨画の本場・中国(明)に渡るチャンスです。
皆さんも遣唐使とか遣隋使という言葉は日本史の授業で聞き覚えがあると思います。雪舟の時代も遣明使という形で、日本からの使者が中国に渡って貿易を行っていました。この遣明船団には雪舟を庇護した大内氏も船を出していて、大内氏の計らいによって雪舟はこの船に加わることができました。
この中国行きを選択したことが二つ目の【いきのこりポイント】と言えます。
中国行きは雪舟自らの強い希望によるものであることは間違いありません。雪舟はとにかく非常にフットワークが軽いのです。中国から帰国した後も大分に移り、さらに死ぬまで日本全国を旅し続けます。
中国へ渡航した時の雪舟は48歳です。当時の感覚からすれば、すでに老境に少しさしかかったぐらいの年齢ですが、飛び抜けた好奇心と尽きることの無い行動力が雪舟にはあったのです。
ここからようやく雪舟の活躍が始まります。
実は代表作を含めて今に残る雪舟の作品は、ほとんどがこの中国留学以降の制作なのです。同時代に「拙宗」という落款を使った画家がいて(読み方は同じ「せっしゅう」になりますね)、この画家を中国に渡る前の雪舟と見なす見解が有力視されていますが、もしそうだとするとその頃の作品にはまだ雪舟らしさが薄く、これでは後世まで名を残すことはできなかったでしょう。それぐらい中国渡航の経験は、雪舟にとてつもないインパクトを与えたのです。
中国渡航によって雪舟は、当時としてはワンアンドオンリーの存在となりました。なぜなら、相国寺という画壇の中心で活躍していた如拙も周文もその他の誰も中国に行った画家などいなかったからです。
将軍を中心とする京都の文化圏では、唐物(からもの)と呼ばれる中国の書画工芸が最上級のものとして扱われていました。幕府御用絵師は将軍のために絵を描く時には、将軍秘蔵の中国絵画(「唐絵(からえ)」と呼びます)を特別に見ることが許され、それを参考に中国絵画風の絵を描いていました。見たこともない中国の風景(山水)を、意地悪な言い方をすれば見よう見まねで描いていたのです。おまけに日本に伝来していた唐絵は、宋時代、元時代に描かれた一昔前の作品でした。同時代(明時代)の最新画風ではなかったのです。
そんな状況の中で、実際に中国に渡り、1年半以上現地に滞在した雪舟の得たものは大きかったでしょう。インターネットで世界中の情報が手に入る現代においても、自分の足を使って遠い異国におもむき、現地の空気を吸い、人と会話し、文化に直に触れることはネットとは比べものにならない刺激を与えてくれます。いわんや室町時代においてをや、です。
帰国後の雪舟は何かが吹っ切れたように、制作に打ち込みます。
「画聖・雪舟」とか言われてしまうと、卓越した腕前の画家をイメージしてしまいますが、そういったフィルターを捨てて素直に雪舟の絵と向き合ってみてください。割と粗雑な描き方であることに気がつくでしょう。ガツガツと筆を走らせる勢いがあって、老境にさしかかったとは思えないパワーに満ちています。
前述の通り「拙宗」落款の画家を中国留学前の雪舟だとみなすと、その頃の絵からはがんばって行儀良く描こうとしている様子、雪舟の「かしこまった感」がヒシヒシと伝わってきます。それもそのはず、雪舟の師の周文をはじめ幕府御用絵師は、依頼主から「今回の絵は中国のこの画家風でお願い」という感じで注文を受け、その指定に応じて絵を描くことが基本でした(「筆様(ひつよう)制作」と言います)。相国寺という芸術アカデミーの中心では、画家たちはお手本となる唐絵から器用にエッセンスを抽出することが求められたのです。この制作方法に雪舟は順応できなかったのでしょう。
しかし、中国を実際に訪れた雪舟は、絵で見た山水をはるかに超えるスケールの実景を目にし、そして日本で周りの画家たちがこぞって参考にしていた唐絵(宋元画)とはまた違う、奇抜さや荒々しさをもった絵画が本場にはあり、それが評価されていることを知ります。こうした経験が雪舟の心理的な枷を外したのでしょう。
雪舟が67歳の時に描いた《山水長巻》(国宝、毛利博物館蔵)は、約16メートルにおよぶ長さの画面に中国の山水や港、家屋などを描きつらねた画巻ですが、巻頭から巻末まで全く飽きずに見ることができます。これは雪舟が自分の目に心地よい筆の重なりを重視し、モチーフの粗密(みっちり凝縮させるところとスカッと空間をあけるところ)を自分の感覚で自由自在に変化させているからです。
もう一つ、これも60歳代後半以降の作とされる《秋冬山水図》(国宝、東京国立博物館蔵)は秋景図と冬景図の2幅セットですが、特に冬景図の奔放さはどうでしょう。
画面上部の一直線に天へと向かいながら消えていく垂直線が象徴的です。雪舟はこの垂直線が輪郭を表す岩山がどうなっているかを説明する気はさらさらありません。画面の整合性を気にすることなく、ポキポキとした線が交差し響き合う形の心地よさを優先しているのです。
雪舟の絵はただ線を目で追っているだけでも、とても心地よくなります。こうした造形センスはおそらく持って生まれた雪舟の資質でしょう。しかし天才的な才能を持っていたから画家として成功した、と簡単に言えないところが面白いと思いませんか。雪舟があのまま相国寺に残っていたら、また48歳での中国行きという決断をしなかったら、その資質を発揮するチャンスが無かったことは間違いありません。
人と違うものを生み出すためには、人と違う行動をとらなくてはいけない。人と同じインプットをしていたら、人と同じようなアウトプットしかできない。いつの時代も変わらない創作の真理を雪舟は教えてくれるのです。