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建築学科がクリエイティブだなんて、嘘だ

ゼロサムゲームという概念がある。

誰かの勝利や幸福が、別の誰かの不幸を前提としており、参加者全体の利益と損失を合計すればプラマイゼロ(SUMがゼロ)になってしまう環境を意味する単語だ。

 

例えば就職活動。
これは、限られた雇用という椅子を取り合うゼロサムゲームの代表例だ。
あなたが一流企業に就職するということは、誰ががその企業に就職できなかったことを意味しているからである。

そして、採用枠が小さく就職希望者の数が多ければ多いほど、不幸になる人間の数も多く、その分ゲームの勝者が総取りする幸福量は大きくなる。


 それに対し、参加者全体の幸福量の総和がプラスになるような環境も存在する。(非ゼロサムゲーム)
 実は前述の就職活動も、状況によってはゼロサムゲームでなくなることがある。

例えば、魅力的な事業を立ち上げ新しい雇用を生み出す学生起業家が増加したとすれば、これは椅子を奪い合う学生の数が減り、幸福になれる椅子の数が増えたことを意味する。

もし起業家学生の数が増え、就職活動に励む学生の数とのバランスが取れるようになった時、誰も不幸になることはなく自分の仕事に就くことができるようになり、就職活動は非ゼロサムゲーム化する。

 無論、勝者になったときの幸福量や優越感はゼロサムゲームのときに比べて遥かに小さいかもしれないが、不幸な人間が最小化されるという意味において、ゼロサムゲームよりはるかに理想的な環境だ。


両者の環境の違いは、「椅子取りゲームの椅子を増やす努力や試行錯誤」が存在しているか否かの違いである。


我々が「創意工夫」と一口に言ったときに、実はそこには二種類の「創意工夫」が存在する。

・一つは、他人の作ったパイを奪い合うための創意工夫。
・一つは、新しい幸福パイを生み出す創意工夫。

誰かの幸福が別の誰かの不幸を意味する前者に対し、後者は関与するすべての人間が大なり小なり皆幸せになる。
表面上は同じ「クリエイティブな努力」であったとしても、その社会的な意義は全く異なってくるのだ。

 そして、ゼロサムゲーム的な視点しか持たない人々が集まる環境では、例えどれほど創造性と独創性に満ち溢れているように見えたとしても、参加者全員が無意識に奪い合い、出し抜き合い、疲弊し合っていくため、参加者の過半数がちっとも幸せになれないということが発生する。

 

そこでは一部のスター的人材のみが評価される。
残った人間は、自分たちが椅子の奪い合いをしているという自覚すら持たず、その才覚と努力とエネルギーを、自分のためにも社会のためにも役立てられないまま、劣等感と無力感に苛まれることとなるのだ。

 

 以上が前フリ。
本題はここから。

この記事は、「創造的」「クリエイティブ」であるはずの建築学科から漏れ聞こえる
・設計課題がつらい
・建築の勉強がつまらない
・建築学科をもうやめたい
という声の原因を追求し、その解決方法を模索する事を目的とするものである。

 

 建築学科生と劣等感

このnoteは、「建築学科と劣等感」をコンテンツテーマとした、建築学科の生存手引ブログだ。

なんでこんな偏屈なコンセプトを設定したのかというと、建築学科という環境のあらゆる要素が、「クリエイティブ」「創意工夫」「学生の独創性」というお題目の影で、ことごとく僕たちの自己肯定感を破壊してくる性質を持っていることに気づいたからだ。


例えば建築学科は、他の学科に比べて下記3点のような特徴を有している。

1.基礎習得機会の欠如
2.フィードバックの欠如
3.自主制作意識の欠如
 

以下順に説明する。

1.基礎習得機会の欠如

建築教育の第一の問題点として、「基礎的な技術やスキルを体系的に身につける環境が整っていない」と言う点だ。

建築学科の学生の大半は、一般的な国語算数理科社会の教育を受けてきた高校生によって構成されている。
その偏差値に程度の差はあるだろうけれど、美大や芸大のような「デザインや表現にまつわる知識・技術」による選抜を殆ど受けていない。
故にその多くは建築的なリテラシーやデザイン的な素養を持ち合わせていないまま入学している。

にもかかわらず多くの建築学科では、基礎技術習得のための模倣模写や基礎的な空間トレーニングの機会を与えられないまま、応用的な訓練を繰り返し課せられる。
これは、ピアノも弾けない・楽譜も読めないという学生に対し、作譜と演奏を要求する作曲演習のようなものであり、極めて非効率だ。
仮にそこが「音楽塾・作曲塾」であったとしても、ピアノが弾けない学生にはまず「楽譜の読み方」「ピアノの弾き方」を学ぶよう勧めるべきだし、少なくともそれを学ぶための訓練方法やおすすめの教本が存在しないのであれば危機感を持つべきだ。

現に建築学生は、

・CADやPhotoshopの使い方
・アイデアを出す基礎体力
・ポートフォリオ やプレゼンボードの作り方

といった、建築以前の表現技術やクリエイティブな思考習慣を身につけることに四苦八苦しており、

・素晴らしい建築とは何か?
・より良い空間のために、何が大切なのか?
・日本のこれからの課題は何で、それに対して建築にできることとは何か?

といった本質的な(=大学で取り組むに値する)問いに到達する前に卒業を迎えている。

もちろんこの現状は、大学教員だけの責任という訳では無い。
建築業界全体の責任であろう。

ともあれこうした現状は
「もっと建築についての考えを深めたいのに、そのための手段が無い」
と言う状況を招き、もどかしさや焦燥感、ひいては学生の無力感をいたずらにかき立てるばかりで何のメリットもない。


2.フィードバックの欠如
第二の問題点として、「成長のためのフィードバックを取り入れない点」を指摘したい。

フィードバックには、「他者からの評価」と「自己の評価」の2種類が存在するけれど、建築学科はそれぞれ異なる理由によって、いずれも上手く機能しておらず、PDCAサイクルが回し辛い。


まず「他者からの評価」についてだが、「教員からの曖昧な指示しか手には入らない」と言う限界がある。

例えばこれがイラストやWebデザインや作曲の学習であれば、学習成果をネットに公開すれば、否が応でも「他者からの客観的で多様な評価」を手にいれられる。
仮に教員や業界内からの評判が悪くても、マーケットに作品を提示する事で大衆からの評価を得たり、ニッチなファンの声を聞くことが可能かもしれない。
ネット上にはいくつもの作品発表のインフラが用意されており、プロアマ問わないクリエイター同士のコミュニティが存在する。


しかし建築学科では、基本的に「教員の評価」「建築家の先生のお言葉」が絶対の基準となり、それ以外の批評をうける空間を獲得し難い。
その評価の言葉自体も、
・建築としての優劣が、プレゼン技術や模型スキル以外のどの点によって決定するのかがわからない。
・教授の判断基準が人によって全く変わる。あるいは、同一人物の評価さえ、日によってコロコロ変わる。
・あいつと自分の実力差があるのはなんとなく理解できるが、その差を縮めるための方針が全くつかめない。
など、お世辞にも学生にとって有益なものと言えるかどうかは疑問なものも多い。

もちろん、教員も悪意があってこのような状況を作り上げているわけではない。その建築がいいか悪いかということは、個人の嗜好や前後の文脈によって大きく影響を受けるので、客観的かつ定量的に設計課題の評価を下すことは極めて難しい。
また、どれほど客観的に建築としての評価を下そうとしても、模型やパースの見栄え・プレゼンテーションの技術の影響を無視して作品を語ることは難しい。


いずれにしろ、建築学科では、

「教員によって優劣はつけられるが、その客観的根拠はよくわからない」
「結局はプレボと模型と口述の表現力勝負になってしまう」

という、学習者の精神衛生上極めて好ましくない教育環境が生まれている。

 

 

 

さらに建築学科では、教授からの評価が曖昧なだけでなく、自己批判や自己分析も乏しい。
ありていに言えば、設計課題が終わるや否やすぐ次の課題に飛びつくので、一度提出した作品を振り返らない。
提出直前、徹夜しながら「もう少し時間があれば、もっといい作品ができたのになぁ」 とうそぶく人間はたくさんいるが、提出が終わればその未練も反省もどこかに消えてしまうのだ。
(「次からは頑張ろう」と決意を固めるのは、創作において「反省」とは言わない。)

 

例えば芸大やデザインの専門学校であれば、自分の作った作品をブラッシュアップしポートフォリオ化するのは、就活とか入試とか以前の、ごく普通の習慣だ。

しかし、建築学科生にとってポートフォリオや作品のブラッシュアップとは、大学院試験や就職活動といった「他人に評価される瞬間」のためのものであり、自分を見つめ直し、仲間と相互批評し合う機会としての意識がない。

 

課題を締め切りまでに完遂できない場合、あなたに第一に欠けているもの。
それは「作品を最後まで完成させた事がある」という経験である。

多くの学生は、課題締切までは寝る間を惜しんで作品の完成に奮闘しておきながら、締切をすぎるとその作品に見向きもしなくなってしまう。
酷い場合は、自分を苦しめた諸悪の根源であるかのように、図面や模型を破壊し、解体し、ゴミ箱に投げ入れ、あまつさえ火に焚べたりしている。

こんな事を繰り返しているから、二回生になっても三回生になっても、あるいは卒業制作を終わってさえ、胸を張って「全力を尽くした」と自慢できる自信作を、一つも持っていない学生がたくさんいる。
(引用:https://note.com/gakka_gokko/n/na64abec55307

このように建築学科では、PDCAを回す、フィードバックを得る、評価をもとに分析・修正するという行為への意識が非常に薄い。

よって、課題での失敗を次の課題に繋げられなかったり、的はずれな反省をしてしまった結果却って状況が悪化する、なんてことは、建築学科では日常茶飯事だ。

 

これは、能力向上の妨げになるだけでなく、モチベーションの維持や成長意欲の阻害にさえなりかねない。

常に隣人の作品と比較してばかりで、過去の自分からの成長や、自分の将来像との距離に注目しないクリエイターは、必ずいつか無力感と徒労感に潰されてしまうのだから。



3.自主制作意識の欠如
さらに建築学科の問題として指摘したいのが、自主制作意識の欠如である。

 

建築学科では、予め敷地・機能・規模・締切が予条件として与えられる設計課題が活動の中心となっている。
無論、敷地選択自由な課題や、土地が与えられて最適な機能と形態を提案するタイプの課題もあるが、学生自らが設計プロジェクトを企画し、作成してから周囲の評価を得るために努力するという意識が極めて低い。

建築学生の創作原理はいつでも

・設計課題のために
・コンペ・設計展のために
・ゼミやサークルの活動として 

の3択であり、同人活動のような「つくりたいから作る」と言う習慣が存在していない。

この記事を読むあなたがとるべき行動は、課題を中心とした設計スタイルから独学・自主制作を中心とした設計スタイルへの転換です。 
(中略) 
課題が出題されてから動き始める課題中心の思考こそ、建築学科に潜む最大の病理なのです。 
課題とはあくまであなたのこれまでの学習の成果を発表する場にすぎません。
常に自分の引き出しを増やす努力を惜しまないものに建築学科の女神は微笑むのです。

あなたの日常が実習課題中心に回る生活である限り、あなたの学習は永久的に実習課題ありきのままです。
課題を中心とした学習計画が、かえって課題の進行を遅らせているという皮肉な状況に、一刻も早く別れを告げるべきなのです。
(引用:https://note.com/gakka_gokko/n/n2a373f7ae5df

これらは、個人の意思・企画・出資で設計を行うことのない建築家の、あくまで下請け的存在である活動状況を再現したものであろうか。

とにかく、他人の提示する条件、他人の評価軸に合わせて勝負する姿勢が前提となっており、大学のカリキュラムも設計課題と座学で完結することが大半であるといえる。

 

 そのためポートフォリオ一つ取り上げても、建築学科生のポートフォリオには課題・コンペで作成した作品が大半を締めており、自主制作やアートワークを持たないものが非常に多い。

 建築を除く創作・クリエイティブ系の専門学校や芸大に視野を向ければ、多くの大学で自主制作は推奨されており、かつ一般的な行為であるのに、である。
特にイラスト系・エンジニア系の分野では、「自主制作の含まれていないポートフォリオはやる気が無い」とみなされるほど、大学の課題というものが当てにされていない。

 建築学科とは対極的といってもいいだろう。

 

多くのクリエイター界隈では、同人イベントや作品による交流文化が極めて発達しており、学生自らの意思で作品の配布やノウハウの公開を行う土壌が形成されている。

それは、特定の教授や建築家といった「権威」に評価されることを目的としない、自己表現と可能性の模索を目指した、自由闊達な空間である。

一方建築学生が参加するイベントと言えば、「コンペ・講演会・作品展」など、建築の権威的存在が前提となる非フラットな交流会ばかりである。
建築学科は、他人の評価を前提としない実験的小作品への意識が極めて低く、そのため自分の強みを伸ばし、創作におけるアイデンティティや自己肯定意識を形成することが、一層困難となっている。


建築学科とゼロサムゲーム

・基礎技術習得機会の欠如 
・フィードバックの欠如
・自主制作意識の欠如
 

以上3点を総合してみると建築学科生は「自分の長所と短所を分析し、欠点を補い、長所を伸ばし、自分の強みを活かせる舞台を探す」といった、創作においてごく当たり前のステップを踏む手段を獲得できていないといえる。

 どれもこれも、学生の自己肯定感を阻害し、劣等感を煽るに十分すぎる威力を持っている。
このような環境では、自尊心を形成できず劣等感に押しつぶされる学生が出てこないほうがおかしいとさえ言える。

 

 

 

でも話はこれだけでは終わらない。

ここで、さらに注目したいのが、建築学科には設計課題・アイデアコンペ・卒業設計といった競争・評価・選別のインフラだけが、極端にに充実している点である。

記事冒頭で語った、ゼロサムゲームの話題を思い出してほしい。

新しいパイを作り出すのではなく、稀少なパイを奪い合うばかりの環境では、ゲームの参加者全員が幸福になることはできず、その大半が疲弊し、消耗し、破れていくということを既に述べた。

 

そしてここまで僕が述べてきた建築学科の環境、すなわち自主制作活動や独自の講評空間といった発想を持たず、自らのエネルギーを設計課題やコンペといった権威付けにのみ注力している現状を思い出してみてほしい。

 

まさしく、建築学科が限られたパイを奪い合うゼロサムゲーム的環境であることに気づくだろう。

 

 

 

例えばある学生が、思うような評価を得られず苦しんでいるとする。

彼は何度も設計課題やコンペティションに挑戦しているが、その努力は未だに実を結んでいないとしよう。

そんな彼が何かしらのブログを読んで一念発起し、自分の強みや個性や才能を伸ばし、さらにそれを設計課題やコンペや就活に最適化させる訓練を積めば、いずれ教員や審査員から望むような評価を得られる日が来るかもしれない。

でも、そうした栄光の日が、すべての建築学生に訪れることは有り得ない。
だれかが優秀賞に選ばれるということは、誰かが優秀賞に選ばれないことを意味する。
課題もコンペも卒制も、その表彰台が限られている以上、「勝者」になれるのはごく一部だ。

もし、優秀賞に選ばれることだけが建築学科生の幸福であり、勝者になることだけが劣等感からの解放を意味するのなら、原理的に建築学科生はごく一部しか幸福になれず、大多数は劣等感に苛まれ続ける事になってしまう。

 こうした建築学科の現状をさして、クリエイティブや創作に対する精神的福祉機能の欠落と表現しても、過言ではないだろう。

 それは、一つの社会の縮図としてはもしかしたら正しいのかもしれないけど、教育現場として本当に最適な環境なのだろうか?

 

 新しいパイを作るための創造力ではなく、限られたパイを奪い合う創意工夫を育てることが、本当にクリエイティブな業界なのだろうか?

設計力を競い合うことで実力を伸ばすことと、競争以外の方法で自分のポジションを確立し、劣等感にさいなまれることなく幸福に建築を学ぶこと、その両立は不可能なのだろうか?

このnoteのコンセプト

以上の内容を踏まえて、このnoteの「建築学科が虚しくなったら読むブログ」と言うコンセプトを定めた。
旗艦メディアである、「建築学科ごっこ」の掲げる「建築学科が楽しくなったら読むブログ」と、対になっている。
(というか、そういう記事をこちらのnoteに分離したのだが、)

建築学科に夢と希望を持っていているけれど、その情熱をどこに向ければいいかわからない人のための旗艦ブログ に対し、こちらのnoteには「建築学科がつらい・虚しい・辞めたい」と言う人をターゲットにした記事を執筆していく。

すなわち、競争・評価・選別のインフラしか整備されていない建築設計教育に対し、自助努力や技術研鑽・アイデンティティ形成の側面からこれを補い、劣等感から開放された自然体な創作活動を応援することを目的として、このブログは執筆されている。


そのゴールは、「権威に評価される」以外の創作動機を獲得すること。

 だれかが用意した椅子を取り合うゲームの外に広がる世界を、このブログで少しでも紹介できれば幸いである。

 幸せな豊かなクリエイターになるために本質的に大事なのは、同業者の中で上位に立つことではない。

この世に一つ、どんなに小さくてもいいから一つ、新しい価値を作り出すことである。

 そして、あなたがあなたの作品を認められること、あなたの作品を喜んでくれるファンを見つけることである。

 それによって、誰かを幸せにし、この世を少しでも豊かにできたと実感できることである。

 

今、あなたの境遇が満足の行くものでなく、敗北感や劣等感に悩まされているとする。
その苦境の原因は、「理想の建築学科生」という曖昧で稀少なパイを全員で貪りあうような状況にこそあるのだと思う。

ゼロサムゲームの中では全員が勝者になることはできない。
それでも全員が勝者の道を目指せば、参加者の大半が適切な自己評価やそれぞれの理想像を獲得できないのは自明である。
 「建築学科ごっこ」という倒錯したブログタイトルは、そんな建築学科生としての将来像を描くことができない僕たちの混乱をイメージしてつけられたネーミングである。 


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