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締め切りまでに設計課題を完成できないあなたが、今すぐするべきたった一つのこと


設計課題提出後の

「もっと時間があれば」
「時間が足りなくてパースできなかった」
「実力不足が悔しい!」

といった声の上がる光景は、もはや建築学科では見慣れたものである。

特に図面作成やパース作成といった表現・プレゼンにまつわる工程は、設計課題の終盤に位置するめ、より不完全燃焼感が残りやすい。

 だから、
「次からもっとちゃんとしよう。スケジュール管理もきちっとして、課題初期から全力を出して、徹夜を回避しよう!」
と決意を固める。

この消化不良感と挫折を繰り返しながら、試行錯誤を繰り返し、建築学生は少しずつ、作業の進め方や創作のノウハウを身に着け成長していく。


が、 


実力を身に着ける上で、そんな決意や試行錯誤より、遥かに重要で、確実で、効果的な方法がある。
この記事では、「作品を最後まで完成させる力」を切り口に、設計課題に悩む学生のための具体的な処方箋を紹介する。


課題の締切≠作品の完成

そもそも、課題が間に合わなかったからと言って、「次こそ頑張る」と決意を固めても無駄である。
大前提として、あなたの課題が間に合わなかったのは、スケジュール管理やモチベーション管理が欠けているからでも、まして完成させる決意が足りないからでも無い。

 

 課題を締め切りまでに完遂できない場合、あなたに第一に欠けているもの。
それは「締め切りを過ぎても諦めず、作品を最後まで完成させた事がある」という経験である。

 

多くの学生は、課題締切までは寝る間を惜しんで作品の完成に奮闘しておきながら、締切をすぎるとその作品に見向きもしなくなってしまう。
酷い場合は、自分を苦しめた諸悪の根源であるかのように、図面や模型を破壊し、解体し、ゴミ箱に投げ入れ、あまつさえ火に焚べたりしている。

 こんな事を繰り返しているから、二回生になっても三回生になっても、あるいは卒業制作を終わってさえ、「胸を張って全力を尽くした」と自慢できる自信作を持っていない学生がたくさんいる。

何度も何度も課題で不完全なまま作品提出を繰り返し、そのたびに「次こそ頑張ろう」と決意を固めていても、実力はつかず、無力感が蓄積し、やはり作品は完成しない。
そんなことを繰り返していては、やがて建築学科としての自信を持つことができなくなる。

何も特別なことは言っていない。

時間無制限で作品を完成させた経験のない人間が、
時間制限のある課題で作品を完成させられる訳がない

という当たり前のことだけである。

あなたが今すぐするべきこと

 あなたの作品が完成しないのは、僕らが課題の提出締切を言い訳に、作品制作を途中で打ち切ってしまうからである。
うまく行かなかった自分の作品に対して敬意を払わず、毎回毎回「次こそ頑張る」と頓珍漢な反省をして、作品を完成させることから逃げ回っているからである。

故にあなたが今すぐするべきなのは、「過去の設計作品の手直し・ブラッシュアップ」だ。
締め切りが過ぎてしまったからと、次の作品に飛びつくのではなく、これまでの学生生活で取り組んだ作品を人に見せられる状態まで全力を尽くして仕上げることだ。

旅行も、読書も、建築家との交流も確かに重要だけど、そんなものよりも「これが私の作品です」と人に発表できる作品を一つ作ることの方が、はるかにはるかにクリエイターとしての実力になる。

設計課題の作品は、課題締め切りがすぎれば終わりなのではない。

 一ヶ月で完成させられないのであれば、二ヶ月かければいい。
二ヶ月かけてもだめならば、夏休みでも何でも使って最後まで仕上げればいい。作品を構想から発表まできっちりと完遂させることを繰り返していけば、徐々に完成させる力が身につく。

そうやって完成体験を積み重ねていけば、やがて締切を課されたとしても、締切日と課題条件から逆算し、必要な工程を無理なく見積もり実行する力がつく。

「作品を完成させる」ということは、そのくらい成長において重要な意味を持っているのだ。  


それだけでは無い。
作品に最後までかじりつく学生には、そうでは無い学生に比べて、さらに2つの大きなアドバンテージを持つことになる。

イメージを可視化する技術が育たない悪循環

それは、「模型やスケッチにたくさん取り組んだ」という経験値だ。

 適切なスケッチ・製図・模型作成技術は、単に設計終盤のプレゼンテーションだけでなく、序盤のエスキスやアイデア出しにも役に立つ本質的な能力だ。
そのため、「模型・スケッチ」の表現技術をしっかり身に着けることは、設計課題前半のエスキスを潤滑にすすめ、滞りなく設計を進める上で不可欠な能力である。

そして、課題を最後までやり遂げ続けると、
→スケッチや作図といった表現技術が高まる
→脳内のイメージを可視化する力によって、設計・エスキススピードが高速化する
→課題提出までに余裕ができ、細部の修正や表現的な工夫を行う余地ができる。
→スケッチや作図といった表現技術が高まる
という好循環を生む。

一方、締め切りに毎回間に合わ無い学生は、課題の時間切れによるプレボ の妥協・省略を余儀なくされる。
結果、設計意図を表現する訓練が未熟になりやすく、それは得てして「想像力の欠如」という結果を招く。

こうなると、前述の好循環は完全に逆転し、
→脳内イメージを表現するスキルの欠如
→設計を進める力がなく、課題の進捗がはかどらない
→締切間際、時間がなく、製図やパース作成を妥協する。
→設計に対する表現力が向上しない
という悪循環を生むことになる。

この意味において、設計課題においてプレゼンに対し試行錯誤する時間が削られることは、建築学生として大きな損失である。

  

適切なフィードバックを得られない

設計を最後まで完成させられない学生が被るもう一つのデメリットは、「他人から正確なアドバイスを貰えない」という点だ。

大学で設計課題に取り組むことの最大のメリットは、教員や同窓が
・「やりたいこと」「創りたいもの」への手段を示してくれる
・学生自身も理解できてない美点や魅力を見つけてくれる
・設計の改善点・反省点を指摘してくれる
点にある。

すなわち、独学や実学と異なり自分ひとりでは見えなかった方針・欠点・長所を言語化してくれる点である。

 

でもそれは、「これ以上この設計に手を加える場所はない!」というレベルまで作品を高めて、ようやく設計課題(のエスキスや講評会)には意味が出てくるという事を意味している。 

よくエスキス会や講評会が、
「学生自身も自覚している欠陥を、他の学生全員の前で改めて指摘する」
という公開処刑になってしまう事がある。

学生としては、既に痛みを感じている傷口に塩を塗り込まれるようで辛いことこの上ないが、あれは教員が意地悪だから行われているのではない。
その学生の作品が未完成だから、欠点を指摘する以外にすることが無いだけなのだ。 

きっちり全力を尽くした上での酷評は財産となるが、思い残しのある状態でもらった酷評は、自覚している傷をえぐられるような痛みとなる。


人は完成品しか評価できない。
それは大学教授とて同じことである。

設計上の欠陥は、エスキスレベルの図面やスケッチからでも指摘されるかもしれない。
しかしあなたの作品の魅力や美点は、最後まで完成させなければ絶対に伝わらない。

適切なフィードバックを得るためには、少なくとも作品が未完成であっては意味がないのだ

 「完成させられない」学生の末路

未完成のまま作品を提出し、締切すぎれば熱さを忘れると言わんばかりに次の課題に乗り換えてばかり。

これでは、クリエイターとしての成長は見込めないだろう。
それは、アイデアをドライブさせる力ばかりが極端に発達し、その構想を形にする脳内回路を組み込むことができないからだ。

でも、単に「成長できない」というだけで済めば、まだマシな方かもしれない。
作品を未完成のまま次の課題に浮気することを繰り返していると、もっともっと深刻な問題を招く可能性がある。

完成品を持たない不満足感をずっと抱えていると、「俺はすごいいいアイデアを持っているのに、評価されない!」という認知的不協和が、稚拙であっても最後まで完遂させることのできる学生に対しての強烈な劣等感を引き起こすのだ。 


ここに、以下の2つの作品があるとしよう。

・アイデアは優秀けど、未完成な作品(=あなたの作品)
・アイデアは駄目だが、完成はしている作品。(=アイツの作品)

この2つの内、教員に評価してもらえるのは後者の完成品である。
なぜなら、未完成な作品の背景を読み解く事など不可能だからである。

 

しかし学生の主観で見れば、自分の脳内にある優れたアイデアと他人の駄目なアイデアで、駄目なアイデアが評価されているような錯覚を感じるのである。
 もちろん理屈の上では模型や図面が完成していない自分が悪いと理解しているが、
「それでも本気を出せば俺のほうが優れている」
という感情が湧き上がってくることを抑えることが、しだいに難しくなっていく。

 この劣等感をバネに作品を仕上げる努力を積み重ねることができれば問題はないのだが、往々にして次に湧き上がってくるのは

「図面や模型表現にこだわっている奴らは馬鹿だ」
「設計は中身で勝負するべきだ」
「プレゼンテーションなんて、正確に伝われば時間を掛ける必要はない」

という自己正当化である。

 

無論、いずれも正論である。
が。それは周囲からの評価が高い学生がいうから正論なだけであって、作品が他者に評価されていない状態で叫んでも負け犬の遠吠えにしかならない。

 こうして、エスキス段階での企画・アイデアは優れているが、それを完成させる能力がない、そしてそれを頑なに認めないという、歪な学生が生まれることとなる。
(こういう学生があなたの建築学科にいないなら、それはとても幸運なことだと思う。)

 

 なぜそのような事態が発生してしまうのか。
それは、作品を最後まで完成させることから逃げ続けていたからにほかならない。 
(ちなみにこの手の学生は、次に「まちづくり」「不動産企画」「地域ブランディング」系の業界や職能を目指したがる。まぁ偏見だけど。)

 

10の未完成品より、1の完成品

「締切が完成である」
とある有名なデザイナーの言葉である。

 まったくもって至言である。
作品の完成未完成を定義するのは、締切という絶対的な基準であり、あなたの主観や努力は無関係であるという戒めだろう。

この発想はひどく正しい。
プロのクリエイターとして働く際、「まだ完成していないので締切を過ぎても作る続けます」では許されないからだ。

 でも、僕らはまだプロではない。
ならば、締め切りを過ぎたからといって無理にそれをゴールとしなければならない理由はない。

いや、一度も作品を完成させたことがないのであれば、それはアマチュアのクリエイターですら無い。
締切を気にして作品を作れるような身分では無いのだ。


だから、あなたの作品が完成しているか未完成かどうはかは、あなた自身によって決定する。
締め切りが過ぎてしまったとか、次の課題が出たとか、そんなものは創作をやめる理由になどならないのだ。

「でもあの設計は黒歴史だから(笑」
「ゴミ作品は磨いてもゴミ。」
「次の作品は、もっとマトモなものにしたい。」

どうか自分の作品に、そんな評価を下さないでほしい。
その見るも無残な姿で作品をこの世に放ったのは、締切までの時間のなさを言い訳に、作品の魅力を切って捨て、現状で妥協した、あなた自身なのだから。


「時間さえあれば図面もパースも完成したのに」
「設計のアイデアは悪くないのに」
「あいつの作品なんて、表面的なものにすぎない」

その気持は痛いほどわかる。
だからこそ、その優れたアイデアは課題終了後も大切に育て、形にしてほしいのだ。

あなたが将来就職活動でポートフォリオを造ったとき、その優れたアイデアを面接官にアピールできるか否かは、今の貴方にかかっている。


あなたが建築学科に入学してから挑戦してきた数多の設計課題。
どれもこれも、大学が設定した「提出期限」は過ぎてしまったかもしれない。

でもそれらは、どれ一つ、何一つ、そのいずれの作品も、まだ終わってなどいないのだ。

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