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未完の小説 7選 〜自殺、検閲、原稿紛失ほか

はじめに

最近なぜか、その類いの本によく出会うので、まとめてみました。
探してみればまだいくらでもあるでしょう。


1 夏目漱石『明暗』

1917年刊行。作者病死により未完

あらすじ

会社員の津田は、持病である痔の治療のための手術費の工面に迫られていた。だが、親は不義理のために金を出すのに難渋し、妹のお秀から責められる。
津田には、勤め先の社長の仲立ちで結婚したお延という妻がいるが、お秀はこれを嫌っている。お延は津田に愛されようと努力するが、夫婦関係はどこかぎくしゃくしている。津田にはかつて清子という恋人がいたが、あっさり捨てられ、今は人妻である。お延にはこのことを隠している。
お延の叔父岡本の好意で、津田の入院費を工面してくれることになった。津田の入院先に、かつて清子を津田に紹介した吉川夫人が現れる。夫人は、清子が流産し湯治していることを話し、清子に会いに行くように勧める。
津田は結局一人で温泉へ行き、その宿で清子と再会する。清子は驚くが、翌朝津田を自分の部屋に招き入れる。(Wikipediaより)

解説

『彼岸過迄』『行人』『こころ』と、近代知識人のエゴイズムを描きあげた漱石が、生前最後に着手した大作。男性視点から描かれたこれまでの作品群と比較し、女性視点を含む多視点での描写がなされている部分が特徴である。
また、水村美苗は未完に終わった本作の続きを書く試みとして、『続明暗』を発表している。

2 川端康成『たんぽぽ』

1972年刊行。作者自死により未完

あらすじ

ある日、木崎稲子の母親と稲子の恋人・久野は、のどかな生田町の精神病院・生田病院に稲子を入院させた。寺と病院を包む丘は、古い皇陵にも見えた。稲子の奇病は、突然と目前の人の体が見えなくなる「人体欠視症」という不思議なもので、その最初が久野に抱かれている時だった。この症状は極度の愛から引き起こされるようだった。
母親と久野は稲子を入院させた帰り道、鮮やかな黄色いたんぽぽが咲き乱れる生田川の堤を歩きながら、稲子の身の上を案じて議論する。(Wikipediaより)

解説

兵庫県を流れる生田川を題材にした本作は、菟原処女伝説に基づきつつ川端らしいテーマである夢幻、美、愛憎などが描かれる。三井寺の鐘のモチーフなど、日本の古典に依拠している。
稲子の母親と久野の対話形式で話は進行し、稲子本人は登場しない。

3 川端康成『千羽鶴(波千鳥)』

1952年刊行(前篇・千羽鶴)
原稿紛失により未完(後篇・波千鳥)

あらすじ

茶の師匠・栗本ちか子の主催する鎌倉の円覚寺の茶会の席で、今は亡き情人の息子・菊治に惹かれた太田未亡人は、あらゆる世俗的関心から開放され、どちらから誘惑したとも抵抗したともなく、菊治と夜を共にした。
太田夫人には、菊治の父と菊治の区別すらついていないようにも思え、菊治もまた、素直に別世界へ誘い込まれた。菊治には、夫人が人間ではない女とすら思え、人間以前の女、または人間最後の女とも感じさせた。太田夫人の娘・文子は2人の関係を知り、菊治に会いに行こうとする母を引き止めた。

解説

日本の芸能である茶道をモチーフに、男女の愛欲を描く。茶の師匠である栗本ちか子が作中もっとも人間臭く卑俗に描かれており、これは堕落した現代の茶道への批判と読むことができる。何百年も昔から受け継がれる茶器に、人間の魂が宿るといった、時空を越える感慨を読む物に与える作品である。後半の「波千鳥」ではストーリーの密度がなくなり、作者の原稿の入ったトランクが旅先で盗まれたこともあり、中絶された。

4 徳田秋声『縮図』

戦時中の検閲および死去により未完

あらすじ

主人公均平は、明治中葉の進歩的風潮に触れて育ち、若気から反逆心にそそられて、地方庁の官吏から新聞社の政治部に入るなど職業を度々変えたのち、資産家三村家の養子になったが、養家の人たちと折り合いが悪く、妻の死後家を出て、子供たちとも別居し、今は落魄して銀子という芸者上がりの女性と同棲している。銀子は貧しい靴職人の家に生まれ、一家の生計を助けるために芸者となり、苦労の多い波乱に満ちた半生を歩んできたが、家庭を持つことに憧れ、苦労にめげず、素朴で単純な性格を、今もって失わない、気性のさばさばした女性である。銀子が均平の後ろ盾で東京・白山で置屋を営むようになったころ、別れて暮らしている娘から手紙を受け取った均平は、富士見の療養所に結核で入院中の長男を見舞い、娘に銀子を引き合わせる。久しぶりの父子の対面はぎこちなかったが、長年のわだかまりはいくらか和らいだようであった。やがて物語は、銀子の過去へさかのぼってゆく。

解説

一時代を築いた日本の「自然主義文学」の書き手として、最も真摯に独自の表現を貫いた秋声晩年の傑作とされる。本作は新聞連載されていたが、太平洋戦争激化による情報局の検閲・干渉により連載中止を余儀なくされた。

5 新美南吉『天狗』

1943年執筆。1965年刊行。作者病死により未完

あらすじ

東京に住む画家のわたしは、故郷の村に帰省する。母校に校舎を描くよう依頼されたからである。しかしやる気がでない。偶然見つけた下駄から、過去を回想する。わたしの家に奉公していたヒロさんと、その兄でヨーロッパへ渡った志貴夫さんのことを思い出す。

解説

まだ物語が動き出さないうちに中絶している作品である。今回紹介している他作品に比べマイナーで、Wikipediaの記事もない。それでも本コラムを書く動機になった作品だから紹介する。29歳で死去するその年に残された遺稿であり、巽聖歌が全集のなかにまとめあげた。
作者は画家のわたしに託して冒頭でこのように書いている。

もうずいぶん長いあいだ、絵をかいてきましたが、あまり有名ではありません。また、これから先、わたしの名が、パッと花火のひらくように、世にあがることはないだろうと思います。
けれど、じぶんでいうのもへんですが、ある人たちは、いつもわたしの絵を愛していてくれます。これから先も、その人たちの愛は、かわることはないと思います。もし、その人たちが死ねば、その人たちにかわる人がまたあらわれて、わたしの絵を愛してくれるだろうと思います。それは少数でも、きっと、いつの世でもなくなることはないような気がします。
新美南吉「天狗」(『新美南吉全集3』牧書店)

6 フランツ・カフカ『城』

1926年刊行。作者病死により未完


あらすじ

とある寒村の城に雇われた測量師Kがいつまで経っても城の中に入ることができずに翻弄される様子を描いている。

解説

同じようなセリフが反復して用いられる構成は独自性があり、モダニズムを代表する手法のひとつとして今日においても世界的に影響力の高い作品である。本作に限らず、カフカの残した作品は未完のものが多い。生前ほとんどの作品が評価されず、彼の文学的価値が認められたのは、マックス・ブロートが原稿をまとめ、紹介した功績によるものである。

7 フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

1880年刊行。作者病死により未完。

あらすじ

複雑な4部構成(1〜3編、4〜6編、7〜9編、10〜12編)の長大な作品であるが、序文によれば、続編が考えられていた。信仰や死、国家と教会、貧困、児童虐待、父子・兄弟・異性関係などさまざまなテーマを含んでおり、「思想小説」「宗教小説」「推理小説」「裁判小説」「家庭小説」「恋愛小説」としても読むことができる。
三兄弟を軸に親子・兄弟・異性など複雑な人間関係が絡む中で、父親殺しの嫌疑をかけられた子の刑事裁判について三兄弟の立場で向き合うことが本筋と目されているが、この本筋からやや離れたサイドストーリーも多く盛り込まれている。
無神論者のイヴァンと修道僧のアリョーシャが神と信仰をめぐって論争した際に、イヴァンがアリョーシャに語る「大審問官」は、イヴァンのセリフ「神がいなければ、全てが許される」によって、世界文学史的にも特に有名。(Wikipediaより)


解説

ストーリーの大枠は、強欲な父親フョードルが殺された、その犯人探しなのだが、真相を含め事態は入り組んでいるし、その大枠から離れたストーリーも多い。
長男ドミトリーは派手で女好きと父親に似ている。次男イヴァンは知的な無神論者。三男アリョーシャは慈悲の心を持つ、ロシア正教の修道僧である。
この作品が未完と言われるゆえんは、作者が書いた序文にあり、そこでドストエフスキーは三男アリョーシャを「奇人とも呼べる変わり者の活動家」と述べている。
一説によると、続編でアリョーシャはテロリストになるはずだったらしい。
実際にロシアではこの後社会主義革命が起こり帝政は崩壊する。
なお、やはり続編を構想したものとして、亀山郁夫や高野史緒が著作を発表している。

おわりに

作者死去による未完ということは、その作品は絶筆ということである。作者は作品を世界に生み出そうと苦しみ、格闘する。絶筆はその夢が果たせなかった結果として存在する。
それは誠に残念な事実だ。いっぽうまた、未完であることによりその作品が独自の異彩を放つこともままある。
作品を生み出すことについて、以下の文章を引用してこのコラムを終わりにする。

いつも同じだ。小説を書きながら、僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている。少なくともその小説を無事に書きあげるまでは絶対に死にたくない。この小説を完成しないまま途中で放り出して死んでしまうことを思うと、僕は涙が出るくらい悔しい。(中略)
そういえばスコット・フィッツジェラルドも小説を書きかけたまま死んでしまったんだな。(中略)
そういうのはきっと悔しいものだろうなと僕は想像する。彼の頭の中ではその小説はすでに出来上がっていたのだ。彼はそれを小説という目に見える形に変えるだけでよかったのだ。でもその前に彼が死んでしまえば、全ては消えてしまう。消滅してゼロになってしまう。そしてもう誰にもそれを復元することはできない。
村上春樹「午前三時五十分の小さな死」(『遠い太鼓』講談社)

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