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ラーメンを食べながらの省察

今日も今日とて在宅勤務で、13時からはそれなりに重要なオンライン会議があった。
前々から近所の家系ラーメンを食べに行きたいと考えていて、それで昼飯をあと回しにして、会議が終わった後に行くことにした。

ソワソワしながら食べるより、落ち着いた気分で食事したい。
ラーメン屋は15時まで開いているし、昼時を避けた方が空いてもいるだろう。

また、家で作業するより、外に出ることも仕事に関連しているのだった。さすがにラーメンを食べることは無関係だが。

さいわいなことにオンライン会議では物事が進展したので、わたしは心地よい気持だった。
そとは晴天でコートのいらない暖かさだったし、レミオロメンの「3月9日」に見事に唄われているような、桜の蕾が春への続いていく穏やかさだ。

わたしが食券を買い店に入ると、カウンター席はほとんど客で埋まっていて、若い男ばかりいる。
厨房では若い女性の店員が前の客のラーメンを作っているようだった。
茶色い髪にインターカラーを入れた、色白の美人だ。
わたしが食券をテーブルに置くが、反応がない。しばらくして、その女性が「佐伯さん、オーダーとって」
と言った。

(実際のところ、わたしには名前が聞き取れなかったのだが、便宜上、ここでは仮名をつけた)

呼ばれた佐伯さんは、今までわたしの席からは死角の位置で作業していたのだろう。
太った若い女性で、まだこの店の業務に慣れていないようだった。
赤いペンをかかえて「どうぞ」と言われた。わたしはこの店に来たことがあるから、麺の硬さ、スープの濃さ、油の量を伝え、また無料のライスのサイズを答えることを知っていて、対応できたが、仮に初めての客の場合、ただ「どうぞ」と言われても戸惑ってしまうのではないか。
わたしの印象では、佐伯さんは不貞腐れてるように思えた。

この店はいつもは50代くらいの腰の低い男性が働いているが、今日は休みで、アルバイトの女性二人で回しているのだろう。それも、忙しい昼時の終わりで、疲れが押し寄せていたのかもしれない。

無事にオーダーがおわり、最初の店員がわたしの机にラーメンを置いた。
わたしが食べ始めると、座っていた客は一斉に帰っていき、がらがらになった。それまで会話してなかったが、どうやら四人組だったようだ。

それでわたしは食べ続けていたが、インナーカラーが佐伯さんに「これからまた怒涛の洗い物だね」といい、佐伯さんが「そうですね」
と言った。
インナーカラーの美人は、チェーンのラーメン屋ならまずフロアを担当するような雰囲気で、声が高かった。フロアを担当するつもりで働きはじめたのだろうと想像した。対して佐伯さんは、声が低く、要領が良くなさそうだった。

わたしが憂鬱な思いに苛まれたのは、狭い厨房内を行き来するとき、佐伯さんがインナーカラーに必ず「失礼します」と発声していたことだ。わたしが店内にいる間に、10回くらい言っていたと思う。
これはおそらく、以前声を出さずに通ったとき、ぶつかってラーメンをこぼしたなどのトラブルがあったのだろう。だから、後ろを通るときは必ず言うようにというルールができたのだろうと思われる。

わたしは自分の過去の経験からしても、アルバイトの場合、飲食だけは辞めたほうがいいと強く思っている。
しかし、そこで働いている人がいるから、我々は飯が食えるのであるが。
飲食は、神経を使う肉体労働で、その対価が多くない。搾取の典型的システムである。

しかし、お金をもらっているのだから多少辛くても我慢しなければならないという意識が働く。初めてアルバイトをする大学生などは特にそうだ。
まあどのような人もそういうことに気づいて、勇気を出して退職し、違う仕事をするのだろうが、その渦中にいると思われる人に遭遇すると、昔を思い出して、胸にせまる。根が真面目な性格の人ほど、いいように利用される。

他人のことは何も分からないから、勝手に思っているに過ぎないが、ここの店員二人に対して、そのような思いを抱いた。
特に、二人のお互いを好いてはいないだろう感情が、沈黙の空間でひしひしと伝わってくるのだ。すべてが妥協のなかで成立している社会。

わたしはラーメンの味を無心に感動できるほど呑気ではなかった。

ここ最近は、わたしにとって重要な2016年のことを考えている。その年は、今同棲している彼女と出会った年であり、アルバイトをしていた年でもある。
いろいろなことが重なりあっているのだが、プルーストを読み始めたこと、それから長渕剛の「とんぼ」や「乾杯」の歌詞に感動したことなどから、この2016年と向き合って、自分の青春を決算するような私小説を始動していきたいと構想を練っている。

大江健三郎の訃報は、そのように取り組み始めた日曜日の翌日のことだった。
大学四年間を通しても、その後も、わたしは折に触れて大江の著作を読んできた。
しかし、立命館大学で彼の講演会に参加して彼の姿を見たのは、他でもない2016年の5月なのだった。結果的にそれが彼の最後の講演になったことが客観的事実としてある。

わたしは卒業論文でも大江の作品を取り上げた。

家に帰ってくると、ポストにオンラインで注文した『沖縄ノート』が届いていた。今はどこも品切れということだから、すぐには届かないかもと思っていたが、そんなことはなかった。

読書メーターによると、去年は「ヒロシマ・ノート」「美しいアナベル・リイ」「憂い顔の童子」の順で3冊読んでいたが、最も印象的だったのがヒロシマ・ノートだった。
それは真摯に悲惨を見つめ、伝える内容で、大江のエゴというものが出ていないルポルタージュになっていた。
沖縄ノートはその時から気持が向かえば読もうと思っていたのだ。

わたしはこの本について、今日まで、後年発生して、大江が勝訴した裁判のことくらいしか知らなかったが、冒頭、いきなり古堅宗憲という沖縄返還運動の活動家の訃報からはじまる。
大江は、長命の有名人の例に漏れず、たくさんの人の死を見聞きし、追悼の言葉を発表してきた人物であり、また死ということについて繰り返し深く思考していた作家だった。

古堅宗憲氏の唐突な死の報に接した朝であったが、僕は自分自身の死について考え、まぢかにその友人の死のような不慮の死が僕を待ちかまえている可能性はおおいにあると考え、それから不意に、その死にいたる時までに、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という命題に自分だけの答をひきだしていることができるだろうかと、ほとんど死の恐怖と同一の恐怖、無力感、孤立している感覚、ペシミズムに首筋をおさえこまれて考え、みすぼらしい涙を流した。
──大江健三郎『沖縄ノート』

「死の恐怖」。これはどのような著作でも、キーワードとして語られていることが多い。また一方、絶望的状況における自死についても、思索の痕跡はあり、わたしのような絶望的状況とはいえない読者を励ますようだ。

だからあの懐かしく、苦しくもあり歓喜もあった2016年を思い起こし、まとめ、現在の無気力で希望の持てない社会人生活からなんらかのモチベーションを獲得するためにも、社会システムの片鱗を知ったアルバイトと、無心に大江文学を読んでいたことは、今始めかけている小説に書くことになるだろうと思う。

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