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村上春樹「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」を読んで


エッセイ集『意味がなければスイングはない』は、文藝春秋から2005年に発売されている。
長年の音楽ファンとして知られ、小説家になる以前はジャズ喫茶を経営し、いわば「音楽を仕事にしていた」といえる村上春樹が、クラシック、ジャズ、ロックなどのアーティストを題材に文章を書いている。

私はその中の、「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」という章が好きで、ときおり読み返す。
その理由は、スプリングスティーンに愛着を感じているというのもあるが、彼の音楽から思索し、その過程で自らの体験についても語る村上の態度が好きなのである。

この二人は同じ1949年の生まれで、そのことに村上は自覚的だ。
文章の最後は、同年齢のスプリングスティーンに対し、「あつかましいとは思うものの、つい密かな連帯感を抱いてしまう」というふうに結ばれている。

村上はまず、スプリングスティーンのコンサートで、「ハングリー・ハート」という曲が8万人に熱唱されることを語る。
広く人々に膾炙した曲だというわけだが、その歌詞の暗さや、複雑な物語性に対して、驚きを抱く。

ブルース・スプリングスティーンが物語として歌い上げたのは、そのようなアメリカのワーキング・クラスの生活であり、心情であり、夢であり、絶望なのだ。
村上春樹「ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ」

それから、のちに個人全訳を行い、アメリカ本国より日本での方が読まれているであろうともいえる作家、レイモンド・カーヴァーとの共通点を語る。
どちらも、アメリカ経済を支えている大多数の無口な、ワーキング・クラスを描いていると。

この際に、1984年、カーヴァーにインタビューするためにアメリカを訪れた際の印象が書かれているのが、構成としても見事だし、説得力を感じる。ちょうどそのときスプリングスティーンは、アルバム『ボーン・イン・ザ・USA』が
商業的に成功しており、普段熱心に音楽を聴かない層にまで認知され、そして誤解されている状況を肌で体感する。
村上のアメリカ体験は、のち90年代にニュージャージー州に住んでいた際、スプリングスティーンが育った廃墟のような港町を訪れる描写も含めて記述されている。

村上は、70年代から80年代はじめまで、ロックをほとんど聞かなかったそうだ。
たしかに、60年代の曲を愛し、それ以後のロックに否定的な様子は、『ダンス・ダンス・ダンス』という小説にも描かれている。
しかしスプリングスティーンのみは、例外的に聴いていたと告白する。

私がほかに好感を持っている場面は、「ボスマニア」という言い方で、スプリングスティーンの相性である「ボス」がさりげなく用いられている点がひとつ。

それから、ビートニクやヒッピー文化、ポストgモダニズムなどはすべて、ワーキング・クラスとは無縁だったことを強調している点だ。アメリカ文学のポストモダンといえばピンチョンやデリーロやオースターなど固有名詞が思い浮かぶが、それらは都市インテリ層のための「知的意匠」だと言い切る。間違いないと思う。

私はピンチョンは好きだが、ピンチョンを好きだと言っている人間に対して嫌悪感がある。

それから、やはり、ワーキング・クラスが国を支えていることへの視野に対してだ。

私は高卒の両親のもとで、地方の町で生まれ育った。人文知が教養の代名詞になるのは心底嫌だが、しかしスプリングスティーンと同じく「本一冊ない家庭」といって間違いない。
中学の頃は友人も同じような家庭環境だった。

しかしスプリングスティーンや春樹の頃と違うのは大学進学率である。
また勉強の機会も、理屈の上では階級に関係なく平等に与えられている。
大学に入学して出会った人々は、同じような境遇の人もいるのは間違いないが、明らかに階級の違いを感じる人も多かった。
親が大卒で、一流企業に勤めていたり、専門職についているだけで、階級は違う。一人一人の親に、仕事がなにか聞くことなどないが、学費の出所や、仕送りの金額などでそういうことはわかる。
それに住んでいる場所でも、ワーキング・クラスかそうでないかはある程度分かる部分もある。

地方で生活することの閉塞感は、21世紀のはずなのに、ずっと感じてきていた。小学校はボロボロで、夏はクーラーもない。若者は、可能なものは街を離れ都会に行くし、それが叶わないものはワーキング・クラスとして地元で生きていく。
人口が少ないから税金も集まらず、市が新しい施設を建設できないのだ。

ところで、こういうことを村上は決して書かないが、スプリングスティーンの楽曲は多くの日本人アーティストに影響を与えている。
浜田省吾や佐野元春や尾崎豊の曲などに顕著だし、また虎舞竜の「ロード」は歌詞の物語展開の着想の上でも、メロディにおいても、「ザ・リバー」の直接的な影響下にある。イントロのハーモニカなど、オマージュといってもいいくらいだ。
そしてこれら日本人の楽曲は、佐野元春は例外的かもしれないが、本も読まなければスプリングスティーンも聴かない多くの日本のワーキング・クラスに支持されているというわけだ。

ちなみに村上の『風の歌を聴け』も、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』の、オマージュもしくはパロディともいえる、直接的な影響を受けた文体で書かれている。


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