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【創作】沈まぬコーヒー③完

【創作】沈まぬコーヒー③完

 集落を出てからの生活は順風満帆で誠之さんは私の妊娠により諦めていた大学進学を決め、哲学や宗教について学び始めた。
 私は誠之さんが建設会社で勤めている間に貯めたお金を少しでも減らさないようにと近所の飲食店でパートとして働いて、初めて社会人として世に出る事に良い刺激を感じている。
誠弥は学校が楽しいのか帰ってくると、友達となにして遊んだとか、算数の授業で何問答えられた等々嬉しそうに話してくるようになり、私も安心した。
 もちろん良い事ばかりではなく苦労もあった。
職場では田舎者と馬鹿にされることや、夫が大学に通っていると言うと、信じられない何でそんな人と結婚したの?といった理解の無い質問も聞き飽きるほどされた。いくら悪気がなくても誠之さんの事を貶されるとその度に心が痛んだ。
でも家に帰れば私の好きな聡明な誠之さんが大学で学んだことや起こった事を面白おかしく語り、誠弥も負けじと学校の話をしてくれる。
私はこの団欒の時間が大好きだった。

 引っ越してから4年が経ち、誠弥の小学校、誠之さんの大学の卒業が同時にやってきた。
誠之さんは小さいながらも名のある出版社への入社が決まっており働くのが楽しみだと豪語していた。
誠弥は勉強こそ苦手だったみたいだが、ピアノや絵画といった芸術分野での楽しみを見つけ中学に入ったら美術部と吹奏楽を掛け持ちするんだ、と豪語していた。
私はと言うと、まだ飲食店のパートを続けており既にベテランの領域に入っていた。
 そんな時、いつものように家族で夕飯を囲っているとテレビから私たちが去った集落のダムが完成したというニュースが流れ見覚えのある人がダムの上で赤いテープを切っていた。
私と誠之さんは顔を見合わせた。
見合わせたもののお互いなにを言うでもなく、笑うでもなく怒るでもなく、微妙な時間が流れ、誠弥もダムという単語にほんの少しだけ顔を硬らせたように見えた。
 私はこの微妙な時間に居心地の悪さを感じ、誠之さんと誠弥に向かって「今週ダム見に行こう」と言ってみた。
2人は同時に「え…?え!」と驚きとも困惑とも取れる反応をして私の顔を見る。
「あのダムはただのダムだよ、それ以上でもなければそれ以下でもないの」
「だから、、」と言いかけた時鼻がツーンとして涙が出そうになった。
「だから、もう払拭しよう」

 週末私たちは誠之さんの軽自動車であのダムに向かった。車内はいつもより静かで少しだけ不安が漂っていた。

山道を抜けると広い湖があり、それが私と誠之さんが子供の頃に住んでいた集落だと気づくまでには少し時間がかかった。
ダムの近くの見学者用駐車場に車を停め巨大なコンクリートのダムの上へ向かった。
ダムの上は皮肉な事に誠之さんの、そして私にとっても、あのとっておきの場所だった。
今では湖しか見えないものの、何故か昔見たとっておきの場所からの景色が鮮明に蘇る。
まるでまだ湖の底に私たちが住んでいるような錯覚。何度も身体を重ね語り合った誠之さんの実家、コーヒーとビスケットを買った商店、手を繋いで歩いた道。
誠之さんの方を見ると目を見開いて何かを追うように黒目が動いていた。多分誠之さんも私と同じものが見えているのだろう。
私は近くにあった自動販売機でブラックコーヒーと誠弥のジュースを買った。
誠之さんの隣に戻りプシュッと缶コーヒーを空けて一口飲むと、あの時の初めて私がコーヒーの味を知った時の味がした。
その口で誠之さんに口付けをすると、誠之さんは驚いたように我に帰って、ニカっと笑いあの時のように激しく舌を入れてきた。私は手に持っていた缶コーヒーを逆さまにして湖にジョボジョボと注いだ。
唇を離すと湖はただの湖に戻っていた。

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