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「みらいの校則」①どのような目的で、どのような校則を目指すべきか?

カタリバ「みんなのルールメイキングプロジェクト」

NPO法人カタリバが、「みんなのルールメイキングプロジェクト」という活動をしています。

「みんなのルールメイキングプロジェクト」は、経済産業省「未来の教室」実証事業にも採択されています。生徒が主体となって、周囲と対話しながら自分たちの学校の校則を見直すもので、カタリバが2019年から取り組んできました。2021年度は全国11の中学・高校が実証事業校として取り組みに参加、7月からは100校のアソシエイト校の募集を開始しています。

そこで、noteでも #みらいの校則 というハッシュタグで募集されています。
校則には私も色々考えたことがあり、是非参加してみようと思います。

校則の歴史~なぜ作られた?

そこで、そもそも校則について知らないので調べてみました。校則がどういう必要性で誕生したものなのかを知りたかったからです。

現在の校則の原型は1873年に文部省が制定した「小学生徒心得」

1873年は、日本の学生公布=近代学校教育制度スタートの翌年です。

明治の近代教育制度の大きな目的の1つは、海外からの圧力に耐えられるだけの強力な軍と、優秀な工場労働者を育成することでした。そして、その両者に通じるのが、命令や指示に対して「従順に従い、正確にその内容を遂行すること」です。
そこで同時期に制定され始めたということは、校則の制定目的も同様と見るべきだと考えます。

これを否定する意図は一切ありません。それは当時の明治政府が置かれた状況への適応として必要なものだったでしょうし、現に近代学校教育制度により日本は植民化を免れ、工業生産を中心に経済発展を成し遂げました。
従って、「大人が設定し、そのルールに従わせる」校則は当時は機能的だったということです。

そもそも、「ルール」って誰のため?

では、そもそも「ルール」とは誰のためにあるのでしょうか?
法律や条例、社内規定などを考えても、ルールは当然その集団や組織に属する成員のためにあります。
当然、校則も子どもたちのためにあります。
スタート当初の校則も、「これを守ってたら、立派に成功できますよ」という意味で子どもたちのために作られたものと言えます。

今、「大人たちがつくったルールを従順に守ること」は子どものためになるのか?

では、今、大人たちがつくったルールに従順に従うことは、子どもたちのためになっているのでしょうか?
今回、プロジェクト名も「ルールメイキング」となっていますが、これからの子どもたちに求められるのは「ルールを守る」ことだけではなく、「ルールをつくり、自分たちで改変していく」力ではないでしょうか?

工業生産が中心だった時代は、多くが工場労働者となるため「ルールを順守できる」ことは非常に重要なスキルでした。
しかし、現在やこれからの時代では、多くの方が指摘するようにそのルールを設定し直すプレーヤーや、ゲームチェンジャーが求められています

だからこそ、今回のルールメイカー育成が経済産業省の「未来の教室実証」事業に認定されるほど重視されているのだと考えています。

ルールメイキングで、民主主義の担い手へと成長する

自分たちで、自分たちが生きる場のルールをつくりあげていくことは民主主義の本質です。
日本では民主主義における各システムは「所与のもの」という意識が強く、自らが関わり、変えていけるという感覚はあまりないように感じます。
投票率の低さなど、若者の政治離れも叫ばれています。

そこで現在の民主主義をよりよくアップデートする上で、台湾のオードリー・タン氏の発言を思い出しました。

台湾では、民主主義は技術と言われていますが、私にとっては技術なんです。
1996年に初めての総統選挙がありましたが、私は15歳で中学を中退していて、すでにワールド・ウェブの一部でした。だから私たちにとって憲法そのものは、改変可能なテクノロジーコードの核にすぎず、実際にはすでに6回ほど変更しており、現在変更を検討しています
したがって「民主主義とはイノベーションだ」という考えが、私たちには備わっているんだと思います。 民主主義はいつでも強められるものです。

上記のオードリー・タン氏の発言のように民主主義は「技術」であり、だからこそその技術はよりよくアップデートし続けられるという経験を得た時、日本の子どもたちも自らの生きる場所を常によりよく改変していく民主主義の当事者となっていけるのではないでしょうか。

そして、子どもたちが出る初めての”社会”が学校です。
学校での民主主義=ルールメイキングを通じて、日本の子どもたちが民主主義の当事者として成長していって欲しいと強く願います。

みらいの校則とは、どのようなルールであるべきか?

では、「みらいの校則」は、どのようなルールであることが望ましいのでしょうか。

その前に、現状の校則に関して、塾講師時代に生徒から聞いた中で印象に残ったことがありました。

エピソード①:「休み時間、他のクラスに行ってはいけない」
これ、結構衝撃でした。私が当時働いていた大阪のエリアでは、ほぼ全員がそうだったとのことです。
ルールの理由を聞くと、ほとんどは「わからない」との返答でした。1人だけ、「先生が『教室で物がなくなったら、誰が取ったのかわからなくなるから』と言ってました」とのこと。

エピソード②:「ボールの返却が遅れれば、内申点を下げる」
「校則」と言っていいかわかりませんが、これもかなりの衝撃を受けました。
私の頃と違って、教室にボールは置いてないそうです。休み時間にボール遊びをしようとすると、子どもは借りにいかなければならないそうです。そして、借りる時に学生手帳で氏名を控えられる
休み時間終了のチャイムが鳴ると、1分後に再度チャイムが鳴る。そのチャイムが鳴るまでにボールを返却しないと、氏名を控えられている生徒の内申点が減点されるとのこと。

これらは、多くの方が違和感を持つのではないでしょうか?
おそらく学校にも、ルールを増やし厳罰化せざるを得ない状況があったのかもしれません。しかし、おそらくこれは子どもたちがそうするべきだと思って決めたルールではないように感じます。

私は、上記の校則(ルール)は
・子どもが決めていない
・当事者の子どもが納得していない(私が聞いた際、ほぼ全員納得していませんでした)
・「~してはダメ」というタブーであり、ペナルティが発生する

という点において問題だと感じています。

納得感は、子どもたちが決める当事者となり、合意形成さえできればクリアされます。

ここで重視したいのは、タブーを犯すとペナルティが発生することです。
考えてみれば、校則は「~してはいけない」というタブー系がほとんどのように感じます。法律で言えば、刑法が中心のルール体系だということです。

そして子どもたちにとって「初めての社会」である学校のルールがタブーばかりだった場合、子どもたちの思考は「~をしてはいけない」が常に先に来ることとなります。
しかし、それでは前向きに何かにチャレンジしようという”思考の癖”は生まれなくなってしまうのではないでしょうか?

現代の日本は、どこか同調圧力の方が強く、チャレンジすることや周りと違うことに対してのコストが高いように感じます。また、悪目立ちした際にネットにおける私刑も問題視されているのは皆さんご存じの通りです。
これでは、様々なアップデートが叫ばれる日本社会において、そのアップデートを担う若者のチャレンジを後押しするのは難しくなってしまうと危惧しています。

むしろ、子どもたちに決めて欲しい校則は、「~をするのが良い」「~をするとみんなのためになる」というようなルールではないかと思っています。
そうやって、「これが良い」というルール・思想の空間で育つことが、子どもたちを前向きな思考へと促し、チャレンジや個の確立を育んでいくはずです。
また議論の中で「なぜそれが良いとされるのか?」さえ決定されれば、「~はしてはいけないよね」は明文化されずに子どもたちに暗黙知として共有されるものです。「明文化してはならない」とまでは考えていませんが、あくまでメインメッセージは「~するのが良い」と良い行動を推進し後押しするものであるべきです。

次回の予告

今回はみらいの校則を考える上での前提や目的を中心に書きました。
次回、明日は具体論としてルールメイキングのあり方やルールメイキングの管理・運営方法について考えていきます。

どうぞお楽しみに!

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