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保育士の給与は安くはない。自らネガキャンをしていた自戒を込めて

今日が終わる。
日々決まった通勤があれば"何"をしたかが、それなりに把握できるのだが、裁量のある仕事だからこそ、どうにでもなってしまうことに怖さを覚えることがある。


保育はそこに「いる」ことが、まず一つの価値になる。ぼおっと立っておけば良いという話ではないが、とりあえず現場に足を運べば、回っている現場の中で仕事が始まる。そして、子ども達と過ごす時間の中に存在していることだけでも、一つの価値が生まれる。

私は、今の仕事を始めて、どこかに足を運べば、自動的に仕事になることなどなく"何をするか"を問われるようになった。そして、保育園で働いている時は、ただ、そこにいるだけで一つの価値が生まれてきたことに、気がついた。


ここで言いたいのは、あくまでも"一つの価値"であるということで、それが最善だとは考えていない。
いるだけ、である場合と、"仕事の中で問いを立て、改善していくこと"には、大きな違いがある。言い換えると、仕事への向き合い方次第で、如何様にでも価値が変わるということだ。

保育士の給与が安いという、社会的なイメージは、大半の人が賛同するところだろう。以前の私も、御多分に洩れずそう考えていた。
ただ、養成校の講師や職業訓練校でのキャリアコンサルタント、株式会社での仕事を経験している今、全く賛同できなくなっている。

そもそも、大企業も含んだ一般職との比較はナンセンスで、学歴、資格に求められるスキル、職場でのトレーニングの状況を鑑みると、妥当なところだろう。むしろ、退職金の制度や、基本的に日祝と夜間の勤務がないこと、そう簡単に廃業しないこと、工夫次第で持ち帰り残業は無くせることを考えると、高待遇とすら感じる。
保護者を含め、社会はもっとシビアだ。

給与が安いと叫ぶ保育士や園長たちには、冷静に考えて欲しい。

カタログかパンフレット程度の、変わり映えのしない冊子を、書籍だと思っていないか。
学園祭の延長のような行事ごとを忙しいと言っていはしないか。
社会情勢を捉え、自らをトレーニングしながら仕事をしている保護者に、子どもに向ける言葉と同様の語彙で話してはいないか。
ただのトークライブや手遊び習得を、研修だと思ってはいないか。
忙しいと言いながら、改善策が出ると"無理だ"と拒否をしていないだろうか。

これは全て、かつての自分への自戒だ。

給与が安いということを盾に、保育士不足を正当化し、保育士や園長からの好感を得ようとしていた節がある。

保育で身を立てている人たちが、自らネガティブキャンペーンをして、仲間になりうる人を減らして、どうするのだ。マスコミに煽られている場合ではない。

責任の重さといっても、組織的に保育をしていれば、保育士個人に課せられるものはほとんどない。しかしながら、組織や責任の所在に対して議論がなされている保育園は、ほとんどないだろう。建設的に物事を捉え、保育を追求していく姿勢と能力を備えるための現場教育は、非常に高いスキルが必要だからだ。

保育士は、国家試験での取得を除けば、養成校を卒業すれば得られる資格である。そのため、就職後に3年も経てば一定の仕事はこなせるようになり、それ以上のスキルは求められていない(明確になっていない)。特に、社会人基礎力や、一般的な社会常識も求められてはいない。
そして、年々落ちていく体力を補うかのように、関わった子どものケースだけが増えていく。それを、コツコツと楽しみながら、幸せに感じることができる人たちによって、今の保育は成り立っている。

私は、保育も、保育に関わる人たちも保育園も、好きだ。働く人たちが幸せであって欲しいと常々思いながら、今の仕事をしている。

だからこそ言いたい。

保育士の給与は、安くはない。
社会の状況を考えると、恵まれているとさえ思う。
給与がどうだというならば、社会に出て、力試しをしたらいい。保育の年数分、社会と遠ざかっていることを実感し、守られていたことを知るだろう。私がそうであるように。

だから、私は保育現場に必要なのは、現場での教育と、配置基準の見直しだと考える。
保育園は、保育士の竜宮城ではなく、大人も成長を実感できる社会であるべきだ。だからこそ、給与が上がることよりも先に、精神的・時間的余裕が生まれることが優先ではないだろうか。そのためにはやはり、現場での教育と、配置基準の見直しが必要だ。

給与の話ではなく、その議論をしたい。

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