今回の選挙を通じて考えたこと

 今回の選挙(統一地方選挙)を通して、改めて考えたことはふたつでした。
 地方政治に関する集会を見に行ったりして思ったのが「そもそも街ってなんだろうな」ということ。
 そして、議員や役人の報酬は公共心を担保しているのか!ということです。
 今回は後者の論点について、すこし書いてみたいと思います。
 すでに重々のご指摘があろうかと思いますが、地方の議員というものもある種の役得となってる部分がありますよね。
 一つには地方議会に関する関心の低さがあります。あるいは、それに連動する地方メディアの地味さ。
 まあ最近は逆に地方メディアが頑張ってる面や地方政治における成功例ありますが、何十年という長さで見たら「そういうもの」として地方政治を半ばないがしろにしてきたという流れがあります。
 そんな中、一部では「変な候補」が当選してしまい、騒がれてもおります。
 まあ、地方政治ですから、外部から変に見られても、その地方には必要な候補である可能性もありますが、昨今のなんか残念な政治状況を可能にしている一因はやはり投票率の低さにありましょう。
 選挙をやるたびに「選挙やっても何も変わらない」と言われます。
 「いや変わる!」という人たちの、意識高い物言いも、確信を持って棄権する人たちには説得力ゼロです。
 マックス・ヴェーバーは情熱、責任感、判断力が求められると言いました。一部の事例かもしれませんが、政治家になりたい人のモチベーションが信じられない。
 これは、政治家を目指す人と、政治家に期待する人の両方に、ある種のスーパーマン願望があると思います。
 「スーパーマンだから高い報酬当たり前」「スーパーマンじゃなきゃ情熱、責任感、判断力」は期待できない。
 本当にそうだろうか?
 民意というものは、ちゃんと議会で踏まえられているだろうか?
 政治関心が高そうな人でさえ、自分以外の人の民意も踏まえた思考をできているだろうか?
 役人もそうで、役人を目指す人は最初から一般人と目線が違う。
 地方の役人だけど「生活保護なめんな」と役人が市民に言うみたいな現象ってなんだろうな?と思いますね。

 今3つぐらいの政党支持層の違いがあろうかと思います。
 一つは、単なる現状維持
 一つは、お利口さんに標語を言いたい
 一つは、デカい建物が絶てばアガる
 みたいな感じで、さらにそこにある種の逃避的なながれが、左右に少しだけあるといった感じ。
 いずれにしても、それらは弱い幻想に支えられているだけ。
 マックス・ヴェーバーは、社会の壁に力を込めて穴を開けるのが政治であるといったことを語っていたと思いますが、ぜんぶ政治の定義から外れています。

 結論を言うと、政治家や役人のある種特権性を減らしていくべきだと思いますね。
 色んなニュースや議論を聞いていて、こういうふうに考えるようになりました。
 選挙に出るための高い供託金も見直す。
 報酬も見直す。
 民意をすくい上げやすい形で政治家が存在する。
 こういう方向性がよいと考えております。
 

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