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102歳の心臓手術~「サンプル思想」とナチズム~

 この週末、ちょいと気になる論争があったもので、触れておきます。元々の〝発火点〟はたぶんこれ👇

なのでしょうが、1.5日で1500万超えのインプレッションですから、なかなかに凄い。〝男女論界隈〟など覗けば、もっと火力の高い〝議題〟ツイートなどいくつもありますが、あの界隈は特別にhotな人々が集っているわけですから、そこは差し引いて考えておく必要があるでしょう。

それで、井川意高氏が言っている、〝102歳〟を対象におこなわれた高額心臓手術の詳細は以下のpdfの通りです。webmaster_16504480703477.pdf (tokushima-hosp.jp)

あるいは、Twitterで最も丁寧な説明と思われるサトウヒロシ氏のこれを引用しておきます。

【102歳の心臓手術に500万円】
世界最高年齢の手術と称賛されているこの記事。
TAVI弁という患者の負担がすくない新しい手術ですが、患者負担が少ない=高齢者も受けられるということで、高齢者むけの術式とて推されてしまっている。
手術費用は高額で500万円。
高齢者は高額療養制度で2万4千円のみの負担。のこりの498万円は、現役世代の負担です。
寿命が数年伸びるこの手術。本人にとっては大事かもしれないが、自費でやってくださいよ。
高額医療、最先端医療を高齢者に無制限に適用し、割引したら、現役世代の負担は青天井です。
さらに、手術に必要な、機材や材料はすべて外国製で、ほとんどの付加価値が海外にながれて円安要因にまでなっている。
誰得なんだ?
(外科医の話ですが、102歳はともかく、80歳、90歳へのTAVI弁手術は全国にTAVI弁センターが作られ、文字通り「バンバン」「無制限」に行われているとのことです)

サトウヒロシ氏は、私が一年ほど前からウロチョロしたり時にコミットしたりしている〝反サロ界隈〟の中でも、五本の指に入る主要な発信者であります。反サロ、あるいは反サロ運動というのは、社会保障費の増大とそれに伴う現役労働者の負担の増加を憂慮し、その〝社会保障〟なるものの中でも特に浪費されている感のある高齢者医療に的を絞り、批判をおこなう運動です。〝サロ〟というのはサロンであり、8割あるいは9割引きで医療を受けることのできる高齢者が病院をサロンのように交流の場として利用することを揶揄したものですが、この〝反サロ〟は、その病院のサロン性だけでなしに、高齢者に対しておこなわれる拷問じみた延命治療であるとか、米国最先端医療だ世界初の試みだなんだと言っておこなわれる青天井とも言える超高額の医療にも批判します。結局は、それらの医療も公費負担になれば現役労働者にシワ寄せがゆくからです。

さて、この〝反サロ界隈〟…それは当然、当初こそ英雄視されていた医療なるものが徐々に徐々にその馬脚を―あるいは彼らの俗情そのものが知的権威によって上手い具合にコーティングされている構造自体を―現し始めた、あのコロナ禍という時代の空気を十分に含んでいますし、いわゆる〝反自粛派〟とも地続きでしょう。Twitterほか、医療産業を攻撃することに長けた匿名者はこの数年でかなり増加したわけで―それは、医療崇拝を強める人間が増えたことと裏表の関係であるわけですが―、その匿名者がもろもろのデータに紐づいてあるいは感情を剥き出しにして、件の井川氏の〝援護〟をすることは簡単なことでした。たとえばこの方は、ネットの匿名者の中でも剛柔兼ね備えた主張が特別に上手であるということで私がかねてから一目置いている方なのですが、この類の意識は、実は〝反サロ界隈〟には広く共有されている。

さて、井川氏のツイートの〝援護〟の話をするならば、その前に、彼に対する異論・反論をいくつか見ておかなければなりませんでした。

概ね3パターンあったように思われます。初めの2つのパターンは私も予想の範囲内というか、異論・反論としてはよくある形、かつその2つは互いに通底するものがあるのか、ミックスされた形で一つの意見として提示されることもしばしばです。ところが、3つ目の〝それ〟は、私に強い嫌悪感をもたらしました。

初めの2パターンというのは、このようなものです。

1.生命尊重主義に基づく、〝カネ思考〟批判および切り捨て批判
2.世代間経済格差を無視したうえでの〝敵は政府だ〟言説

このあたり…

つまるところ、彼らの異論・反論というのは分からないでもない。彼らは、そもそも現代の若者や労働者の多くにとって〝老後〟が贅沢品であることや、民主主義というゲームにおいて高齢者というものが決して勝てそうにない強敵として存在すること、そして年々その割合を増してゆく高齢者を上手く誘導することでますます肥え太ってゆく医療産業へのむず痒い感情などを、低く見積もっているだけとも言える。それより遥かに高いところに、彼らが懸命に守ろうとする〝人道〟、近代西欧風に言えばヒューマニズムと近しい(とはいえ、ぴったり一致するわけではないが)ものがある、ということなのだろう。困っている人がいたら助けねばならない、という性質の。生命尊重主義も世代間相互扶助の勧めも、ここから分かれた枝葉とも思われる。…ところが、その〝人道〟というのも、ここまで切羽詰まってくれば―「よくよく考えたら、自費で爺となった父を助ける息子の方が、公費で―国に頼って―父の介護をしてもらう息子よりも遥かに〝仁義〟があるじゃねえか。ドラマチックじゃねえか。息子もカネがねえと路頭に迷っていたら、そこに、父の古くの恩人が俄かに現れて札束をポンと渡す、そうなりゃもっとドラマチックじゃねえか」という風な言説が現れてくる昨今―その輪郭も崩れつつあります。徒然草だの楢山節考だの、あるいはビートたけしの「オイラの最期は四畳半のアパートで野垂れ死にだ」とか言ってるコラム記事などを引用しては、「これが日本古来の〝死に方〟だ」とか言って〝介護不要論〟を唱える向きもあるそうです。

さて、そんな中で、「あ、これはヤバい」と思ったツイート群というのが、ありました。端的に言えば、「人体実験として見ればプラスじゃん」という類の主張です。

件の手術が失敗に終わろうとも、一定の信頼を医学なるものに寄せた爺さんが裏切られて死んでも、それでよいのだ、なぜなら彼は〝サンプル〟として医学の進歩に貢献するから…という発想。それにしても、現代ウケする感性だとは思います。〝人道〟にどっぷり浸からず、それでいてやけっぱちの暴力性とも距離をとり、冷淡に、学術的、エンジニア的観点に基づいて分析する。令和ここにあり、という気もする。

ツイート群への反応を見るに、医学の発展のためならば医学が人を殺すことになっても許容され得ると認める人が万単位で存在するということ。ここにおいて、「本人の了承があれば」なんていう但し書きはロクな効果を持ちません。というのは、この手術が成功するか否かは、すべて〝向こう〟の手にかかっており、かつ、病院側も一定の〝色気〟を撒いているからです。これが、〝人体実験〟と、明確に銘打たれているのならば話は少し変わります(仮にそうだとしても、なんだかなあという気もしますが)。病院が実験体を募集しているところに爺さんが手を挙げて、「老い先短いワシの人生、後学のためにも好きに使っておくれ。死んでもいい。」と言い言い病院にやって来た。というようなパターン。しかしそんなことを実際にやっているわけはなく、あくまでも、「成功見込みのある手術」ということで手術台に乗せているわけです。そういう状況を、アノように解釈することの恐ろしさ。

本人の了承があろうとなかろうと、手術を受けた人間が病院で殺されたとして、その人間をサンプル扱いしてオシマイなのは問題だということ。ここまで書いて、特攻志願によって亡くなった兵士に思いを馳せますが、しかし、仮に手術による死者たちがサンプルと扱われるとすれば、彼らは、先述した病院側の〝色気〟と、〝向こう〟という表現によって示したその受動性を加味すれば、特攻の末の死者よりも遥かに惨めであるように思われます。戦争において果敢に戦ったあげくに亡くなる、そしてその雄姿を称えてどこかに祀られる…という物語と比較しても、「医学の発展のためだから‼」という使命すらもあやふやなままに手術を受け、失敗の果てに亡くなり、果ては〝サンプル〟として匿名の存在として扱われるというのは、極めて酷薄な物語であるように思われる。医療倫理の原則がどうとか、インフォームド・コンセントがどうとか、そういう水準を飛び越えている。そういうわけで、元々の井川氏のツイートに「これは酷い‼」とか憤っているヤツで、「サンプル」云々のツイートにいいねをしているヤツがいたら、それは「❓」という話である。

なんでもって特攻がどうとか言い出したかというと、〝サンプル〟云々と唱えていた人々のなかの一人が、井川氏のツイートに対して「ナチズムの主張と同じ」云々と文句をつけていたから、というのもあります。

これ、ナチスに〝病院〟を対置させると…言いたいことはお分かりだと思うが、〝サンプル〟云々と言える人が、他人をナチ呼ばわりするのはいかがなものか。そして、実は〝そっち〟の方がタチが悪いのではないかという気もする。

ナチズムは言うまでもなくファシズム、ファシズムとは団結、団結のための方便として、ナチスは民族を採用した。私はナチズムについてYESもNOも言いませんが、確かに、「国家の持続可能性のために高齢者は見捨てろ、放置しろ」という発想は、ちょっとナチっぽい。それは認めます。

では翻って、サンプルどうこう言っている人々の主張というのは、「医学の発展のために命を投げうつことは善だ」ってことなんです。そこに強制力が働くかどうかは別にして、そこに一つの強烈な価値を感じていらっしゃる。それはそれとして認めるとしても、井川氏の意見を〝ナチズム〟だとして意気揚々と批判する立場の人間が唱える主張なのか? ということです。そこに見られる一つの危うさ、相反性というものに着目した私は、「ああ、ヤバい」と思ったわけです。ついでに言えば、特攻云々の部分でも話しましたが、戦地に赴くというのは「お国のため」という巨大なお題目があったわけですが、手術におけるお題目というのは極めて曖昧。戦争ほどの、陰の部分、暗い部分の顔色を見せてやるスケール感もない。端的に言って、大義と言うには非常にマニアック。出発点は「この爺さんにも価値があるに違いない。探してあげよう」だったかもしれませんが、その結果が「良い実験台になれるから」という風な結論になるのは、近代的進歩主義に染められすぎた弊害なのかもしれないと強く感じ入りました。個人的には、そういう結論に至るくらいなら、ナチ呼ばわりされたとしても、「そんな手術、公費でやるなよ。無駄じゃん」という素朴な意見の方がマシという気もする。

最後、〝サンプル〟云々の思想は、突き詰めれば、「医学に貢献しないヤツは殺せ」に行き着き得る、ということは言っておきます。


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