小学生の頃からずっと文章書くのが好き

要旨
担任に提出するノートに始まり、ブログ、ホムペ、mixi、Twitterなど、いろいろな手段を使って文章を書いてきたんだなという話

小学生の頃

思えば小学校の頃クラスで書くことになっていた「アンテナノート」が発端だったのかもしれない。
4年生の頃だから2000年頃だったはずだ。
アンテナノートと言うのは、毎日毎日1行以上の日記みたいな文章を先生に提出するためのノートで、先生は毎日それを見ては赤ペンでコメントを書いていた。きっと、児童のことを理解したり、異変を察知したりするのに一役買っていたのだろう。
学年が変わって担任が変わっても続いていたので、おそらくその頃の教育界ではそういう実践がそうとう流行っていたのではないか。

朝提出させて帰りの会で返却していたのだが、小学校って担任の先生がずっとクラスで授業をしているのだから、いったいどの時間を使ってノートを見ていたのだろうか。昼休みもみんなで一緒に給食食べてるし、先生はいったいいつみていたんだ。

先生の時間捻出方法はさておき、私はこのアンテナノートを書くのが結構好きだった。
正確には、周りが適当に2~3行書いてお茶を濁していたのを横目に見ながら、1ページびっしりどうでもいいことを書いて、「俺は周りとは違うんだ」と思って悦に入っていた。

中学生の頃

中学生になるとアンテナノートは無くなった。
その代わりブログが流行りだしていた。
当時はまだ自分のパソコンなんて持っていないし、家のパソコンがピーガー言いながらインターネットに接続されていたような時代だったと思う。あるものはブログを書き、あるものはチャットに興じていた。
私はブログ派だったのだけれど、この頃は特にブログを更新するのが好きだったわけではなかったと思う。部活が充実していたし、毎日友達としゃべっているからあえてブログで何か書く必要がなかった。
だからあまり記憶にない。

高校生の頃

受験が終わって携帯を買ってもらったのは非常に画期的な出来事だった。
高校の同級生はモバゲーの日記とか、携帯で作れるホームページでみんな盛んに日記を書いていた。
大体の人は高校の部活仲間とか同級生とかでホームページを作ったりしていたのだが、私は部活の同期が3人しかいなかったし男子は自分1人だったので、ホームページを作るような機運は生まれなかった。何のきっかけだったか忘れたけど、中学校の頃仲良かった他校の部活友達のHと二人でホームページを作ることになった。
ページ制作はHが主導でやってくれたので任せていたのだが、その結果「青春の1ページ」という名前のホームページになってしまった。
青春の1ページ。
仮にそうだったとして当事者が言うなよ、と思うし、当時はシンプルに「だせ~」と思ってしまったが、結局19歳までこのページの更新を続けた。

携帯で書くわけだから大した長さではなかったのだけど、なるべく毎日更新していた。
これは、そのとき読み始めたほぼ日の糸井重里のコラムに影響されていたはず。
糸井重里のことは、たぶん中学生の時に知った。友達から借りたMOTHER2がめちゃくちゃ面白かったから。携帯を持つようになって暇なときにほぼ日にアクセスできるようになったから、そこから影響されていったと思う。
糸井重里の文章は「身の回りのことから話を広げられていてすごいな」と思っていて、それを真似しようとしていた。それがウケたのかどうかわかんないけれど、結構友達がコメントを残してくれたので励みになった。
そういえば、あの頃はお互いコメントし合う文化がしっかりあった。
コメ返とかありましたよね。

自分で書くだけじゃなくて、友達や、話したことない他クラスの人の日記を読むことができたのは面白かった。
ホームページはそのメンバーたちの交友関係に応じてリンクが貼られていたから、いろんな人のページにたどり着くことができた。
全然かかわりはなかったけど、なんか家庭科の部活みたいなことをしている人たちのホームページが面白かった。
あの当時のホムペ文化について友達と振り返ったら、懐かしくて死んじゃうかもしれないな。

大学生の頃

書くこと自体が好きだった割に、全然読書をしてこなかったのだけれど、大学生になったら周りが読書家だらけだったので、頑張っていろいろ読むようにした。
大学生になって始めたmixiの日記をクラスメイトのUが読んでくれて、「文体がちょっとこの人に似てる」と言って貸してくれたのが、宮沢章夫の『牛への道』だった。
この本にはとにかく衝撃を受けた。なんてどうでもいいことを書いているんだと思った。
糸井重里が日常の些細なことから広く大きな話、あるいは別の話へと軽やかにつながっていくタイプの文章だとしたら、宮沢章夫は日常の些細なことをずっと突き詰めているタイプだと思う。中には普通に奇妙な出来事について書いていることもあったけれど、それも普通だったら見落としてしまうか忘れるようなどうでもいいことがきっかけだったりしていた。
当然、宮沢章夫の影響を受けてしまったので、数年間はそういう、その場で足踏みしているような文章を書こうとしていた。
今はもうあえてマネするつもりはないけれど、理想の文体を挙げるとしたらそういうものかもしれない。

社会人になって

報告書だとか企画書だとか、事務的な文章を書く上で、これまでの経験は生きているっちゃ生きているけど、本当はもっとどうでもいいことを書いてひねもすのたりのたりしたいものだなと思う。

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