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”運”すらも自己責任にするな!

自分の人生は自己責任だと言われるが、どこまで自己責任なのだろうか?と思う。

責任を問うことができるのは、「自分でコントロールできる範囲」のことだ。その部分に関して、「それはお前の責任」と言うことは許されると思う。

今の社会で自己責任論がはびこるのは、「人生の大部分は自分でコントロール可能でしょ?」と認識されているからだ。

しかしどうだろう。
実際に人生の大部分は自分でコントロールできるものなのだろうか?

というか「自分でほとんどコントロールできるよ」としてしまうことはとても危険なのではないかと思う。
つまり、自己コントロール可能な領域をむやみに広げるべきではない、と言いたい。


ちょっと話が飛ぶが、最近の自己啓発本というかスピリチュアル関係というかわからんが、その界隈でたびたび登場する話がある。

「運は良くすることができる」

というものだ。
「運がいい人、悪い人の違い」みたいな論調で話されていることが多いと思う。

僕もはじめこういった考え方を見つけた時なかなか興味をそそられたが、今考えるとこれは非常に危険だ。

なぜかというと、運まで自分でどうにかできる、なんてしてしまうと、”運”すらも自己責任にされてしまうからだ。

自分でどうにかできる=コントロール可能。
コントロールできるなら、努力でどうにかできる。
つまり、運が悪いのはお前のせいだ!ってことだろ?
お前の努力が足りないから、運が悪いんだ てことだろ?

なんという暴論。そんなこと言われてしまったら、何にも救いがなくなってしまうではないか。

毒親の元に生まれてしまった運の悪さを「おまえのせいだ」と言っているのと同じではないか。


話は戻るが、だから、自己コントロール可能な領域はやたらと広げてはいけないのだ。
だいたい”運”はコントロール外の要素だから”運”なのであって、それをコントロールできるものとすることは矛盾する。

運が悪かったね、でも運だから仕方がないね、それなら、自分がやれることを精一杯やろう。
↑のほうがよっぽど前向きで生産的じゃあないか。

運が悪い。これって俺のせいだよなあ。運が良くなるようにしなくちゃ。
↑は?やるべきこと間違ってない?


自己責任論を否定する意見もここ最近は多く見られるようになった。

人によって生まれた環境とか、家の経済状況とかいろいろある。毒親とかそうじゃない親もいる中で、スタート地点がすでに違うということは、多くの社会的論客が言っている。そのような社会では、不遇の環境に生まれた人が、自分の努力のみによって上昇することは難しい。したがって、自己責任論で通すのは酷だよね、という話である。

社会の仕組み的にまだまだ難しい部分はあるだろう。
でも、そういう”持たない者”が、「環境が良くなかったよね」「親ガチャ失敗したよね」くらいの傷を舐め合うくらいは認めてあげてほしいなと思うのだ。

その”不遇さ”を受け入れ、できるだけ卑屈にならずに生きていけるような社会であってほしいなと思う。

不遇に生まれたことすらも”自己責任”みたいにされてしまう社会ではダメだ。

スピリチュアルっつうか自己啓発っつうか、”運はコントロールできる界隈”の人間は反省しろ!
ていうか絶対にコントロールできないから。だってそれが運だし。
何でもかんでもコンテンツにして金儲けすればいいってもんじゃない。
そういうコンテンツに救いを求めて手を伸ばすのは、「運が悪い人たち」なのだから!


運すらも自分でどうにかしろ、などと言ってしまう社会は冷たすぎる。
運が悪いものは悪い。
それを社会全体が受け入れた上で、「それならばどうしようか」と寄り添い救いの手を差し伸べるのが、あるべき姿だと思う。

記事が1ミリくらい良かったら100円ください