学歴は幸せの「必要条件」か「十分条件」か?あるいは「条件でない」か?(教育格差)
「生まれ」が人生を決めている。絶対そうとも言い切れないし、そうでないとも言い切れない。なんとなく認めたくない気もする。しかし、本書は紛れもなく「生まれ」がその後の人生に影響を与えていることを示している。それでも読後に思うのは、「生まれで、幸せな人生になるかどうかは決まらないのでは?」ということだ。
「親」「生まれる場所」が与える影響
まず、新書にしては333ページ(註釈含めると360ページ)とかなり厚い。しかし、定型の分析パターンで論展開が進むため読みやすい。それは、①親が大卒か否か ②居住地が3大都市圏か否か、の2つの観点で、様々な教育的データを見ていくというものである。幼少中高と分析は進むが、主には以下の内容である。
・親の大卒人数が多いほど、子どもの大学進学期待は高い
・親の大卒人数が多いほど、子どもの通塾率/習い事の利用率は高い
・親の大卒人数が多いほど、学習時間は長い
・親の大卒人数が多いほど、親の学校教育活動への参加度合いは高い
・3大都市圏か否かで、大学進学率に数十%の差
・「住民における短大卒以上の割合」は、東京>3大都市圏>非3大都市圏
・大卒者の方が、所得が高い
すなわち親が大卒だと、それが当たり前の元、子どもは育つ。その当たり前は、子どもの「進学期待の高さ」「通塾率/習い事率の高さ」「学習量の多さ」などに現れる。そのような当たり前で育った子どもたちは中学進学時に私立へ(主に3大都市圏)、高校進学時に高ランク高へ進む(全国的に)。結果、高校(私立中)で学校間の差が大きくなり、大学進学することが当たり前の学校とそうでない学校に別れる。このような仕組みにより、格差が再生産されている、という分析である。
なお、本書では"SES"(social economic status,社会経済的地位)が重要概念として示される。世帯収入や親学歴、文化的所有物や行動文化、職業的地位などを統合して一つの数値にしたものであり、この違いが上記のような「子どもにとっての当たり前の違い」を生み出している、という考え方だ。
*参考 家庭の社会経済的背景(SES)が困難な児童生徒への支援について
学校カリキュラムと、隠れたカリキュラム
世界的に見ても、この格差再生産を是正できている国はないようだ。どの国も、低SES(下位25%)の子どもが、高学力(上位25%)になる割合は低い。具体的には、OECD平均で11.3%、アメリカで11.3%、日本で11.6%、フィンランドで14.6%と、どの国も社会経済的地位が低いと高学力にはなれない。教育政策や税再配分などを様々しても、SESによる学力格差が残ることが示されている。
このような状況下で、日本の義務教育は、国際的には「平等的」との評価だそうだ。日本全国どこにいても、共通の学習指導要領によって学習機会を得られるし(内容、目標、教材、教員免許は国で統一されている)、学期中は生徒の自由時間が少ないから「平等的」である。一方で、生活や地域,コミュニティの中に「隠れたカリキュラム(Hidden Curriculum)」の影響からは逃れられない。地域によって当たり前とされている規範は異なる。例えば大学に行くのが当たり前か否か、塾に行くのが当たり前か否か、である。
また、日本の特徴的な点は、高校から極端に学校間格差が大きくなる点だそうだ。小中と異なり、(SESと相関のある)学力で選抜を行うためだ。すなわち、高偏差値高には高学力×高SES生徒が集まり、低偏差値高には低学力×低SES生が集まるということである。衝撃的だったのは、「日本の高校1年生(15才)は、OECD調査において全ての科目で『授業以外で勉強しない』割合が最も高い」というデータである。これは、学校内の当たり前とされている規範が「勉強しない」という学校が一定数あるため、この結果になったのではないかと考察がされていた。
学校がどれだけカリキュラムをより良くしようとしても、それと同じかそれ以上に大きな影響を持つ「隠れたカリキュラム(Hidden Curriculum)」が存在する。そして高校ではその隠れたカリキュラムが近い生徒同士で集団化され、学校間格差が大きくなる。本書でも指摘されているが、もちろん不利な環境から最終的に大学進学を勝ち取る生徒はいる。しかし、それは実数としては万単位いるために見つけられるだけで、割合が高いわけではない。心地よいエピソードを話しても、問題が解決するわけではない。このような事実に、学校は何ができるのだろうか。
1人1人にとって良い学校教育とは何か?
この状況をよし(やむなし)とするのか、あるいは是正に向けた努力をするのか。何もしなければ、このままの状況が続くだろうし、再生産なのだから格差は拡大するばかりあろう。難しいのは、格差是正に向けて「全員の、機会の平等」に傾斜をかけると、「個人の、選択の自由」が制限されることである。どちらかを重視することで誰かの痛みが生まれる事は避けられない。もちろん、機会を平等にしたところで…という議論も残るだろう。
この実態を抱えた中での、「良い学校教育」とはなんだろうか。ふと疑問に思ったのは、「社会にとって良い学校教育」と「1人1人にとって良い学校教育」は同じか?異なるとしたら、相反するものなのか?ということだ。再生産される教育格差という"社会的事象"を知ったからこそ、その中で"一人一人にとって良い学校教育"とは何か、を考えてみたいと思う。
「大学に行く」は、幸せに繋がるか?
最後に、本書について疑問に思ったことを記載する。それは膨大なデータの帰着が「大学進学」であり、「所得が多くなるから=労働市場で評価されるから」という前提で議論が進む点である。本当にそうであろうか(それだけであろうか)。大学に行った人の方が、大学に行っていない人より幸せか?所得が高いのであれば、経済的自由や選択権は多いだろうが、今の時代の幸せはそれだけではないはずだ。
教育格差の話から、いつのまにか「一人一人にとって良い学校とは何か?」になってしまった。まだまだ、学校という仕組みについて知りたいと思うばかりです。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。
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