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教育DXで目指すべきは何か?(グローバル化、デジタル化で教育、社会は変わる)

私生活がバタバタしまして、大変久々な投稿になってしまいました。noteを開くのすら懐かしいのですが、その間にもフォローいただいた方など、本当に嬉しく思います。またここから、自分なりのペースで続けていきます。ご一読いただけたら嬉しいです。

 グローバル化とデジタル化が社会に大きな変化を引き起こし、求められる人材像が変わるので、教育を変えていかねばならない。このことが特に強く言われるようになったのは2015年くらいからだろうか。2013年に『雇用の未来(Carl Benedikt Frey,Michael A.Osborne)』が発表されてしばらく、文科省他多くの資料にこの論文が引用され、変革が必要とされる背景とされていたように思う。その後入試改革の議論が紆余曲折した約5年を経て、"GIGAスクール" "教育DX"の議論に突入、さてこれからどうなるか。どうすべきか?今一度そんなことを思いながら読み進めた。

教育の変革で何を目指す?

 前提として、ここでいう教育とは学校教育とする。教育という言葉は"教育改革" "教育DX"などとバクっと使われるが、民間教育や家庭教育を改革しようという議論はあまり見かけず、この本の中でも多くは学校教育を意味しているように見受けられた。学校教育,家庭教育,民間教育が相互依存関係であることは間違いないが、あくまでここでは学校教育と定義して考えたい。

 さて、学校教育を変革するのは何のためか?国のためであり、社会のためであり、個人のため。どれも正しく、これまた相互依存関係にあると考えるが、私自身は個人のため=一人一人が幸せに歩むために学校教育の変革を目指すべきと考える。こう書くとさも当然のようだが、記載の通り相互依存な点に注意が必要だからこそ明記した。
 例えば、「日本はIT人材が〇〇人枯渇する試算、だからプログラミング教育が必要だ」となると国のためが上位にきているように思うし、「社会の分断が進む中、シチズンシップ教育が必要だ」となると社会のためが上位にきているように感じてしまう。もちろんそれらは大切だが、国・社会のあり方に個人のあり方を規定されるのではなく、一人一人がありたいように存在し、幸福感を感じながら生きていけるようなことが大切ではないか。だからこそ、自分自身でありたい姿を描き、そこに近づくために学ぶ必要があれば、自ら学びを設計し、取り組むことが重要だと思うのだ。

変革のポイントは何か?

 そうなった際に、昨今のトレンドはどうか。例えば資質・能力育成。知識技能、思考力判断力表現力、主体性が大切と文科省は謳う。しかし、他人が必要と決めた知識技能を習得し、他人が設定した場面で発揮される思考力判断力表現力を身につけることに意味はあるだろうか?もちろん発達段階もあるため、まずは他人がデザインしながら、資質能力を伸ばしていく段階も必要とは思う。しかし、大きな目的として「自分が必要と考える知識技能を学ぶ」「自分が必要と考える思考力判断力表現力を伸ばす」ことから外れてはいけないのではないか。特に主体性に関しては、他人の指示・アサインに対する主体性ばかり育まれては全く意味がない。それこそ"受け身の学び"の究極ではないか。こうしたことからも、「自分で学びたいことを描ける」「その学びをデザインし、取り組める」といったことが大切なように思う。
 同じことが、経産省が昨今よく謳う"個別最適な学び"にも言えると思う。本書の中で大変共感した一節に、「生徒の『エイジェンシー/能動的主体性』をいかに育てるか?アプリに載せられただけの学習では、アチーブメントは向上するかもしれないが、実際は受動的学習に終わることもありうる(第6章)」とあった。昨今流行のAIドリルに取り組む姿は往々にしてポジティブに発信されるが、AIが出題する問題に無目的に取り組むことはまさにブロイラー的な学びである。

 そう考えた時、本書の巻頭対談(京大石井先生×東北大堀田先生)は示唆に富む。この対談の中で、"学びの個別化"と"学びの個性化"を分けて議論する必要性が指摘されている。私の感覚では、"学びの個別化"はICT活用などで話題にされやすいものの、"学びの個性化"についてはまだまだ議論が足りていないように思う。そして本当に大切なのは、こちらではないか。学びの個別化は、多くは学習進度・学習難易度の個別化であり、学習目標や学習内容は一律だ。一方で、学習目標や学習内容も個別にし、一人一人が自由に学びを作ることを"学びの個性化"としてより推し進めることはできないだろうか?実際に、いくつかの学校現場では「生徒に時間を返す」というスローガンのもと、総単位数を削減し、生徒が自由に学べる時間を増やす動きが水面下で起きているように思う。生徒自身に返ってきた時間でどのような学びが生まれるのか、そして学校がその時間をどう受け止めるのかは注視したいところである。
 一点留意したいのは、京大石井先生が指摘されているように、「学びが個性化されてよかった」エビデンスが出しづらい点である。ここは生徒の変容を丁寧に見とっていく必要があるだろう。

育む vs 育つ

 先のアプリ学習への指摘のように共感する点も多かった本書だが、一つ気になるトーンがあった。それは、現状の教育に対する問題点を指摘しながら、「〇〇を育む必要がある」とまとめられている箇所が少なからずあった点だ。これでは、「生徒を決めたカリキュラムに取り組ませ、〇〇が育まれることを狙う」というこれまでのアプローチと何ら変わらない。教員・教育行政が育んであげるスタンスがどうにも拭いきれないのだ。そうではなく、学習者自らが学び育つことを前提にした支援のあり方を考えられないだろうか。この支援の具体は、もっと出てきて良いように思う。例えば本書第10章によると、与えられたトピックに対して指示された以上のことに取り組んでいるとcreativeと評価されるそうだ。教員の想定外の学びを高評価する仕組みなどは参考になるのではないか。


教育の特にデジタル化は、学校の姿を大きく変えようとしている。しかし、表面的には変わるように見えてもパラダイムシフトが起きていないと思われることも相当数発生している。どうトランスフォーメーションするのか?ここをぶらさずに議論すべきだし、一方で一つの解で全ての児童生徒が報われるようになるなどと傲慢にならず、引き続き考えていきたいものである。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
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