教員の評価で、生徒が失うものとは?(学習評価)
昨今、「カリキュラム・マネジメント」や「授業改善」という言葉をよく聞く。そして、その目的は「児童・生徒に資質能力を身につけるため」と言われる。本書は、学習評価をキーとして、その実現を目指すものである。しかし、読後の感想としては、学習評価をキーに、「カリキュラム・マネジメント」や「授業改善」で「資質能力育成」を目指そうとすればするほど、遠ざかっていくのではないか…そんなことを思う。
評価をキーに、計画→指導→評価→改善サイクルに取り組む辛さ
第4章の章題「学習指導の計画と評価基準」に代表されるように、全体を通じて「指導計画」「評価計画」の精度を上げ、また「評価結果」をもとに改善していくことの重要性が説かれる。しかし、これでは計画を忠実に実践することに注力するだけなのではないか。計画では想定していなかった生徒の学びをどう扱うのか。そんなことを思う。
また、評価できるもの(いわゆるペーパーテストで定量化しやすいもの)ばかり改善に活かされる可能性はないか。改善が、やたら旧来的な学力に寄ってしまったりしないだろうか、ということも併せて思う次第だ。
「評価基準の具体化」が進むと,,,
第5章は、章題「評価基準の設定方法の明確化」ということで、評価基準を具体化することの重要性が説かれる。もちろん、定義も曖昧、評価者のイメージも曖昧な評価ではどうしようもない。いざ評価する際のメリットとして、具体化すれば評価者は評価しやすいだろうし、生徒も基準をイメージしやすいだろうし、教員間のずれも減るだろう。しかし、具体的にすればするほど、デメリットも生じるのではないか。例えば、具体にすればするほどそこから溢れやすくなる。例えば評価基準を具体化して「〇〇を用いて」としたら、それ以外は基準外になってしまう。これも、想定外に生まれた生徒の学習活動を評価できないと思うのだ。
また、生徒にとっても具体化されればされるほど、生徒が選択できる学習活動の幅が狭まってしまう。どうしても、この評価基準の具体化は「教員の理想像を伝えよう」「そうなってもらおう」が滲み出ているように思えてならない。その想い自体は悪くないと思うのだが、それで良い学びとなるかは一考の余地があるように思う。
「生徒の評価」と「指導そのものの評価」は一緒に議論できるか?
なんとも腑に落ちないことがある。それは、第1章から語られる「資質能力が確かに身についているか、学習評価で明らかにしなければならない」「それは『学習指導の適切な改善』と『子どもの資質能力育成』に寄与するから」とある点だ。つまり評価は『指導者側』『学習者側』双方に意味があるとされる点だ。もちろん意味はあるのだが、これは一括りにして議論して良いのだろうか?
例えば、評価をして、生徒に資質能力が育まれると分かったカリキュラムがあるとする。その場合、「生徒が成長するカリキュラムだから良いカリキュラム」と言えるのだろうか?置き換えると、「良いカリキュラムは、生徒が成長するカリキュラムである」と言えるのだろうか?カリキュラムの策定者としては良いカリキュラムと言えると思うが、学習者はそれを良いとするのだろうか。
「教員による評価」で失われるもの
教員が評価をするためには、指導計画がいる。では、指導計画では想定できていなかった学びはどう扱うのか?そして教師が評価基準を示せば、生徒の学習目標はその基準でより高評価を取ることになってしまうだろう。
そう考えると、「教員が描いた成長を、生徒が目指す」のであれば、評価はうまく使えるだろう。しかし、児童生徒の成長は、往々にして教員の想像を遥かに超えるし、多くの教員はその姿の尊さを知っている。評価を頑張れば頑張るほど、そうした"想定外の成長"が失われるように思うのだ。
評価よりフィードバックの議論を
本書を読んで、疑問に思うことがある。それは、「児童・生徒に資質能力を身につけるために『評価』の充実」と掲げながら、評価で終わっている点だ。評価はあくまで手段であり、さらに言えばツールでしかない。大切なのは、「評価(見取りを含む)を用いたフィードバック」ではないか。もちろん、ある時は評価とフィードバックが重なることもある。しかし、生徒にどう還元していくかを抜きにして評価を検討することは、評価のための評価にしかならないのではないか。
日本,そして世界の潮流は「生徒主体の学び」だ。これは本書でも序章で書かれていた。だからこそ、評価の議論に終始することなく、生徒へどう還元するかも含めたフィードバックの議論が、早く当たり前になってほしいものである。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
是非ご感想など伺えれば幸いです。
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