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「死がふたりを分かつまで」を拒否する墓の前でわたしが考えたこと

わたしは、あてもなくゆっくりと散策するのが好きだ。ここパースで今の家に引っ越すまでは、なぜかあまり周辺を歩き回ることもなく過ごしてしまったけど。

いつだったか、薄曇りの天気が続いたあとの晴れ間に少々辺りを見てみようかと出かけたことがある。まだアパートに住んでいたときのことだ。

しばらく歩くと広大な墓地があり、何百もの平らな墓が果てしなく続いていた。オーストラリア自体が「新天地」なので、墓に刻まれた文字は皆比較的新しいものばかり。1900年以前のものはほとんどない。
そうした墓の間をゆるゆると回っていると、ひとりの年老いた女性がひざまずいて祈りを捧げているのが見えた。わたしが近づく前に彼女はゆっくりと立ち上がり、おぼつかない足取りで去っていったが、墓はかなり大きなもので飾られた花も華やかな彩りを添えている。

墓のそばに来たわたしは、刻まれた名前と没年からたぶんそれが彼女の亡き夫のものなのではないかと思ったけれど、その墓にはもうひとつ女性の名前が生年のみを添えられて刻まれていたのだった。

スイスでもその習慣を目にしたことがあるが、オーストラリアでも行われていると知ったのはこれが初めてだ。
年老いて先に逝った夫の墓に自分の名を連ね、没年を刻むまで準備された自らの「死」は、残された彼女にもうそれ以外の未来がないということをも意味する。もちろんそれだけ彼女が夫を愛し、死後も共に土の下に埋葬されたいという気持ちの現れでもあるのだろう。

しかし、わたしはその墓の前で「まだ生きているひとの名が刻まれた墓」というものの存在に圧倒されてしまったのだった。

日本の墓は先祖代々のもの、その家に生まれた者、または結婚その他によってその「家族の一員」となった者が、死後そこに名を連ねることが「一般的」だ。言いかえれば、自分の血縁あるいは連れ合いの血縁などがワンサカひとつの墓の中に共存しているわけだ。

現代の西洋では墓は個人のものだから、「先祖代々」(こういう感覚もあまりないようだが)の墓所があったとしても、墓自体は通常別々になっていまる。生きるのも個人、死んでも個人というところだろう。

それでも、「家族」としての集団意識を持たないひとびとが、こうして決然と連れ合いが亡くなったときに自分の名を隣に刻むという行為も、また「個人の意志」以外の何物でもない。
「死がふたりを分かつまで」という、結婚を一種の契約とみなす考えに対し、断固としてその持続を要求する声明であるとも言える。

そして、彼女の没年が刻まれたときに、初めてその夫は「夫婦としての死」を迎え、彼女と「ともに」忘れ去られるのだろう。

墓地の散歩は、なぜかひとを厳粛な気持ちにさせるものだ。
老いた彼女の気持ちが今安らかな期待なのか、あるいは残された者の諦念なのか。

わたしの問いは、延々と続く墓の静寂に吸い込まれていった。

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