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昔気質の大工のおじさんがいた

昔気質、という言葉がある。若いひとたちは「むかしきしつ」と読んでしまいそうだが、これは「むかしかたぎ」と読む。
昔からの伝統的なことがら、様式、仕事などを頑固に守るひとたちのことだ。独創性に欠けるという弱点も持つが、伝統的な技術を継承する職人にも多い。

そうした昔気質のKというおじさんは、わたしの実家を建てた大工さんだった。だった、というのは、脳梗塞で倒れて、そのまま寝たきりになってしまったからだ。
わたしの覚えているおじさんは、頭を手ぬぐいで包み、地下足袋で軽やかに足場を登る職人だ。何をやらせても仕事は速く、そして的確だった。わたしの実家が何十年たっても、3年前の地震で大揺れに揺れてもびくともしなかったのは、おじさんの腕のせいだ。

暇なときは趣味の釣りに行き、釣り上げた魚を手に時々飲みに来る。そこかしこの修理も引き受ける。まな板をかんなで削り、包丁も研いでくれた。酒が好きで、修理などが終わるとそのまま父と一緒に晩酌を始めるのが常だった。

仕事から帰宅した父は、それでも時々おじさんがすでに飲み始めているのを見ると、機嫌が悪くなった。虫のいどころでも悪かったのだろう、と子供心に思っていたが、今考えるとそれは父の軽い嫉妬だったかもしれない。
おじさんには家庭もあったし、わたしと同年齢の娘とその下に息子もいた。が、おじさんはわたしたちのうちに来るのが大好きだった。何かと理由をつけては、飲みに来ていた。こども好きというわけでもないので、遊んでもらった覚えはない。本当は母のことが好きだったのではないか、と思い始めたのはもう高校生になってからだ。

父が亡くなり、葬式に顔を見せて線香だけを黙ってあげて帰っていったおじさんは、半年ほど全く顔を見せなくなった。そして、それから時々勝手口に現れては釣った魚を置いていった。どんなに言っても、頑なにあがろうとはしなかった。たまにまだ修理のために来ることもあったが、茶の間にあがって母とふたりでお茶を飲むようになったときには、すでにどちらも70歳を越えていた。

「一度はお見舞いに行かなきゃねえ」と言いながらも、母がおじさんを病院に見舞ったのは、すでにその寝たきり生活が2年目に入ろうというときだった。口が聞けないおじさんは、「おう、おう」と言って満面の笑みを浮かべたという。本当に嬉しそうで、おじさんの娘が「こんなに笑ったのは初めてですよ」とびっくりしたそうだ。

「おじさん、お母さんのこと好きだったんじゃないの?」と言うと、母はいつも「何言ってんのよ、気持ち悪いわねえ」と答えた。
でも、男女の感情でなくてもおじさんは絶対母のことが好きなんだ、と思うのは妹も同じとみえて、「ふん」と顔をそむけてテレビを観る母の横で、わたしたちはこっそり目配せをしたものだ。

その母も去年90歳の誕生日を迎えて1ヶ月もたたないうちに亡くなった。コロナがパンデミックとして猛威をふるい始めたころだ。わたしはもちろん母の死に立ち会うことも葬式に出ることもできなかった。

そして、おじさんはまだ母の死を知らない。

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