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振り子のように共育を考える話

10月に新生活を迎えてから100日あまり。
あっという間に過ぎていった、というのが率直な感想です。

5〜6月は前職で異動があり、新部署の把握やらプロジェクトやらが忙しかったわけですが、その時は確か「激動、というよりまだケキドウくらいかな?(笑)」とか思っていました。

そう、「激動」は予想通り2021年の後半に待っていたのです✨

この3ヶ月で僕が触れた教育の形は、これまで僕が触れてきたり、考えてきたものとは異なるものでした。でもこれは時代の流れ的に必然だったと思います。

そんな訳で今回はこの3ヶ月を振り返り、振り子のように教育を考えることと、そもそも国家戦略として教育があったよね…という振り返りと、でもテクノロジーによって国境の壁が溶けかかっている世界線で教育ってどう考えようか?っていうことを綴ります。

【好きなことで生きていく?】

例年、10代を中心に「なりたい職業ランキング」とか出されますよね。出典元によってランキングが微妙に異なるので話半分で良いのですが、世の中の動きは感じ取れて面白いですよね。

細かな違いはあれど、どのランキング記事にも共通していること。それは・・・

◆安定した収入、高い給料を稼ぎたい
◆趣味を楽しみたい、好きを仕事にしたい

随分長いこと、こんなのがランキング上位の理由に来る時代続いています。人気ランキングに選ばれる理由は変わらないのですが、その理由において選ばれる職業は当然年によって変わります。その理由は、おそらく多くの人が「目で見てわかる、耳で聞いてわかる人や職業」に、環境的な影響を受けているからでしょう。男子のランキングでよく入っていたスポーツ選手が2021年に入っていないのは、少なからずコロナの影響もあるかと。メディアでその姿を見る割合・確率が減った≒環境的変化による影響を受けているようにも感じるのです。

芸能人やアイドルがランクインされなくなったのも、メディアの魔法が解けたことによる影響とか、アイドルのリアリティに触れることによる価値軸の変化もあるのかな、と。

そんな風に考えていくと、「好きなことで生きていく」「趣味を楽しみ稼いでいく」という言葉に、僕は「?」がついてしまうのです。昭和特有の説教くさい話がしたいのではなく、「そもそも好きなことって何よ?」と思うことが多い。環境的影響から生まれている「好きらしい何か」であることが多いですからね。好きなことが何かわからないけど「好きなことで生きないと!」という強迫観念で動くと、なんか昭和と変わらなくね?みたいな。「好きなことで生きるとどんな良いことがあるの?」とか、そういうことも考え対話する時間が大切になってくる。

「好きなことで生きよう!」
「皆んな違って皆良い!」

ということを声高に語ることは、新たな分断も生むと思っています。好き・楽しいに十分価値があることを認めた上で、もう少し踏み込んで考えたい時代になりつつあるな、と思うのです。


【教育≒国家戦略。でも…これからの国家って?】

教育は何のためにあったか?自分らしさを磨くため?将来自分のやりたいことを見つける機会として?

面白いコンテンツを紹介されて、「あぁ、そうよね!」と改めて思い出したことがありました。

誤解を恐れずにあえて端的に言えば、教育って国家戦略です。特に欧米では。そして日本は、その西洋文脈を明治に模倣した訳ですから、その根底には国家成長の戦略がある点を考えると、色々な疑問に対する答えもなんとなく見えてくるのかもしれません。

◆国力強化の為、教育コミュニケーションコストは下げて、幅広く伝えたい
 →教育がなかなか変わらず、遅々として改革が進まないのは…
◆政治、思想、宗教への影響は考慮しつつも、国の価値基準は考えねばならない
 →入試科目でない道徳が授業時間を削られず、改革当初から共にあるのは…

なんか、こういうことを書くと急に政治色が強く見えるのですが、考えてみれば当然な気もしますよね。国の義務にもなっているのに、何の意味もなくボランティア…は、ちょっと考えにくいです。

でも、ここでちょっと気になること。

国家って、テクノロジーによって随分壁が溶けかかってますけど?

国家も政治も宗教も、SNSをはじめとするテクノロジーの民主化によって、この10年で見ても随分その価値や位置付けは変わってきています。そしてこれからもその動きは加速すると思います。

そうすると、国家が作りたい国民をイメージ通りに維持、育成することが難しくなります。それは同時に、個人もどんな国家とかコミュニティで自分のアイデンティティを築き上げていくのか?これを考えることが重要なことになってくるということでもあります。そういえばこれに近しいトピックの記事も書いていました。


【分散発酵する未来は個々が社会との契約を考える】

コロナはかなり多くの方々の生き方や働き方、社会との向き合い方に変化を与えましたよね。2022年以降も、メタバースだのWeb3.0だのも含めて社会の分断や分散、それらが醸して新たな文化や社会を作っていく動きが加速すると思います。

それは結果的に国家の概念を変化させることにもなるし、個人個人が日本とか自治体との関係性とは異なる、新たにして複数のコミュニティでの社会性をどう作っていくのか?という新しい問いと学びを生むことにもなると思っています。

教育が国家戦略であり、その国家での関係性を築くための契約であったと考えると、そう遠くない未来に、分散発酵した社会でどのような関係や位置付けに身を置くのか、置きたいのかで受けるべき教育やつけるべき知識は変わってくるのでは?となるわけです。勿論、分散発酵型社会に属さない、これまで通りの生き方のみを選ぶ方々も一定数以上いるでしょう。その選択や発見すら個人の学びに依ってしまう可能性が極めて高いので。

ちなみに、どんな社会においても共通する普遍的なヒューマンスキルもいくつかあると改めて強く思います。それらは未来軸で考えても、長い歴史の中で円環的に繰り返されているような…🤔

好き嫌いに関係なく学んでおく、知っておくことは極めて重要。ある意味「好きなことで生きていく」以上に価値があり、結果的には多くの人が興味を持つ「安定した生き方」に近づくのかもしれません。


【振り子のように共育を】

「教育は画一化からの脱却せねばならない!」と言われ続けてずいぶん経ちますよね?けれども一方で、日本は変わりたがらずだから、遅々として進まないことも多くて、それについてやきもきしている人も沢山いらっしゃいます。

でもここまで書いてきたこと、僕なりに思考を整理した結果からすると、仕組みとして脱画一化をそこまで唱えなくても良いのかな?となるのです。

道具を与えて、あとは放っておいて見守るのが良い…と言われても、それができない大人はまだまだ多い印象。登るべき山を見つけられていない人が興味で動くことを心配する。じゃあ別に脱画一化なんて無理じゃん(笑)と考えちゃいます。

個々が状況に合わせて、振り子のような学びのバランスを考えるのが良いかと。

TeachingとCoaching
具体と抽象
手段と目的
受動と能動
右脳と左脳
全体と個

これ、どちらが良いかではなく状況に応じて行き来させられることが重要なのです。今という時代、振り子的にあえて言うならば・・・

◆好きに拘らなくて良い
◆ピンとくるならばキツくても頑張ってやってみる
◆Human Understandingってプログラミングより語学より大事かも
◆人間理解の上で、もう少し直感的・右脳的で良い

 →社会契約論の振り子揺り戻しと考えると「なるほど!」なのよ
◆価格よりも価値で値決めする思考を持ってみる

二元論ではなく振り子のように。
拘りや哲学は交差点に待つ。
そして黄金の中庸たる知性感性を磨く。

それらを仕組みに期待せず、個々にやれるところから実践すると良き時代です✨

教育に未来を価値を感じて、記事で心が動いた方からのサポートは嬉しいです。いただいた信頼の形は、教育セミナーで使いたい本とかレゴとか…etcに使います!