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教え子の苦悩 〜学ぶことは善か悪か?

2年前、偶然にも(?)教え子の相談に乗り、人生選択の苦悩を聞いた時のお話。学ぶこと・日本人らしさ・人の出会い等に思うこと。

【青年の悩み】

まだまだ残暑も厳しいある秋の日、突然謎のfacebook友達申請が来ました。写真もないしプロフィール情報もゼロ。怪しいことこの上ない・・・。詐欺メール…という感じもしないし、なにしろ情報がなさすぎて「なんだこいつ?」くらいに思っていました。仕事中だったので特に気にも留めず放置。しばらくしてまたスマホが鳴ります。今度はメッセンジャー。うん?さっきの人?中身を見てみます。

ほう…。あ、あの時の彼?!もう10年も前に出会った彼だ!一体なぜ?10年間、まるっきり連絡なんて取っていなかったのに。それにしてもえらい丁寧なメールだな…。いろんな記憶がフラッシュバックしました。それにしても一体何事か?10年間全く連絡をとっていない人から突然連絡が来て「お話ししたい」と言われると少なからず考えちゃいますよね?教え子でなければ怪しさと警戒心が増すばかり…。しかし彼が今後のことですごく悩んでいる様子はすぐにわかりました。

事情がわかり、教え子が悩んでいるとなるとウズウズしてしまいます。これはなんとかせねば・・・。もう夜になっていたのですが、急遽会えないかどうか打診し、そしてすんなりとその日の夜に会うことになりました。彼がこれから先、どのように人生を歩いていくかについて考えていることを聞くこととしたのです。

【中学生時代、彼なりの哲学】

この彼、出会ったのは彼が中学生の時。お父さんに連れられて塾の門を叩いたのです。いわゆる「学校の勉強」はよくできる子でした。でも思春期まっしぐらな感じで、独特の思考や哲学らしき何かをよく言葉にする子でした。それも思春期らしく尖った表現で。厨二病感が無かった…と言えば嘘になるかも。

「世の中ってよくわからなくないですか?」

「先生、俺はもっと自由になりたいんですよ!」

「なんか、哲学でロックな生き方が良いと思うんスよね」

彼との会話の記憶を呼び起こすとこんな感じ。それも真面目に語っているというよりは、ウケ狙いっぽく聞こえてしまう(失礼)。勉強もできるし、頭の回転も早いんだけど今ひとつ活かす方向というか、何か軸がなくフラフラしているというか…。ま、中学生なのでそんなものあってもなくてもどっちでも良い気もしていました。そんな彼は僕が時折話す社会的雑談(?)にはえらく食いついてくる子でした。赤ちゃんが言語習得するメカニズム・日本人は何で血液型占いが好きなのか・大人になってからのお金との向き合い方・暴走族は淋しさの共同幻想・・・とか。クラスの中で彼が一番こうした会話への反応が良かったと思います。それはそれで良いのですが、受験生的に、こういう生徒の結果は微妙になることが多い。何しろ学びにはくるけれども、記憶する・知識を身につける系の勉強はめんどくさいから適当なわけです。難関の受験を突破したければ、それなりにやりたくなくても取り敢えずやらねばならないこともあります。それをやらない。うーん、不安。。。

しかしながら驚異のセンスと謎の自信があった彼は、とある名門の私立高校に進学が決まりました。まさに驚きの結果。合格した後、1回だけフラッと遊びにきてくれたのです。ヒッピーみたいな格好にすっかり変わった状態で。下記はイメージ。ヒゲ以外はほぼほぼこんな風に僕の目には写っていました。

特に驚くこともなかったですが「おぉ・・・。こっちの方向に行ったのね(笑)」みたいに思っていました。

【学びに覚醒した後に待ち受けた壁】

慌ただしく当日に彼と会うことを決め、20時をすぎた頃に待ち合わせ先の都内某所に行き、彼の到着を待ちました。程なくして現れた彼。僕からすると、何と初々しいスーツ姿にネクタイをしている彼!(笑)中学生時代の彼を知っているから余計に驚きと共にどうしてもニヤニヤしてしまいます。

ソガ氏「おー!久しぶり!・・・ていうかどうした?真面目ぶっちゃって(笑)」

教え子「いや、先生に会うのでちゃんとした格好でいかないと失礼かと…」

ソガ氏「うわー・・・らしくねぇ(笑)気にしなくて良いのに!」

ご飯も食べていないということだったので食事を取りながら、ゆっくりと彼の話を聞きました。勉強が好き!というには程遠い印象の彼でしたが、その後徐々に学ぶことに目覚めたようで、大学院に入学し修士課程に進み、そして今は何と博士課程にも進もうかと真剣に考え始めているというのだから驚き!いやぁ、人って変わるものね…。頼もしくなったなぁ…などと目を細めていました。

が、悩んでいることというのは、まさにこの博士課程への進学に踏み切れない、踏み切って良いものか…?というものだったのです。というのも日本で博士課程に進んだとしても、その先はいろいろな困難が待ち受けている…と言われることがどうにも気になるみたい。「ポスドク問題」などはその典型。

彼はどうやら人文系の博士課程に進むつもりでしたから、ポスドク専門分野の内訳でいうとマイナーな分野の様子。それはそれで彼を不安にさせているのでした。彼が話してくれたことの中で、僕がなんとも言えず苦しくなったのは彼のこんな言葉でした。

「みんなが働いている中で、自分だけ勉強続けて良いのかな…って。罪悪感が…」

いずれ国家レベルの共有財産になるかもしれない貴重な才能。本人ももっともっと学びたい。別に社会に出たくないわけじゃない。でも、だからこそ周りのみんなが働いているのに自分だけ社会に貢献できていないような罪悪感がある。どこかしこで聞かれる「え?学生続ける?勉強好きなんだね…ていうか働かないの?」とかいうセリフは少なからず言われたことがあるとのこと…。日本では学び続けることは、なぜだかまだまだネガティブな印象を与えてしまうのは困ったものです…。そして構造的な難しさもあります。僕が敬愛する落合陽一さんの過去記事をでこの問題を鋭くかつ的確に指摘しているものがあります。5年も前(!)の記事ですが。

この記事はITを切り口にしていますが、学ぶこと・研究すること・日本で博士を取ることの課題などがとてもよくわかります。

【「有り体であること」を幸せと感じる国民性】

なぜこのようなことが起こるのか?「同調圧力」などという言葉で語られることが多い国民性にその理由があると思っています。

「有り体な生活はそこそこに幸せである」という思想は相変わらず蔓延っている。大学にはきちんと言って、20代で結婚し、子供は二人はいて、車はファミリータイプの〇〇で、ペットが居て、年収は〇〇万くらいで…。どこかで見聞きしたことがある「幸せの形」を追い求める傾向がすごく強い。時代は変わりつつある、と言ってもまだまだこう言った考えは地方部を中心にとても多いと思います。

実際僕も、沢山のご家庭と面談をする中で「お子様にはどんな風な進路や将来をご希望されているのですか?」という質問をすると、ほとんどの方は以下の3つのどれかを希望します。

「食いっぱぐれない人生が良い(女の子ならなおのこと)」

「普通で良いからしっかりと自分で人生を歩んで欲しい」

「幸せになって欲しい」

最後の「幸せになって欲しい」というのは、親であればこそ願わない方はいらっしゃらないと思います。が、「食いっぱぐれない」「普通の」人生とはどんな人生なのでしょう?彼は今、まさに自分の意志と周囲からの「もう十分頑張ったんだし、普通にやっていこうよ」という同調圧力の狭間で苦しみ、悩んでいたのでした。周りと違う人生で良いのか?博士課程に進むことは迷惑をかけるだけで価値がないのではないか?上手くいかなかったら?だったら教育にも興味はあるし、思い切ってもう働いても良いのではないか?彼の悩みは尽きません。

先ほど紹介した落合陽一さんの記事には、日本にも世界にわたり合える優秀な博士はいるとこ、そしてその優秀な博士は日本でなくてもやっていけることについて触れている部分があります。それは正しいのでしょう。が、僕は悩む教え子を見ていて優秀な博士になる手前で挫けてしまう・耐えて突き抜けるだけの胆力を持つことが出ずに諦めてしまう才能ある人々もまた一定数(かなり多く?)いるのだ…ということを強く感じました。このような才能に対して、それこそ多くの人は「それだけ優秀なら日本出てもやれるじゃん」という有り体な意見を述べるのだろうと思います。特に有用な解決策を生まないような意見を。いくら優秀でも、その国民性ゆえにひょいと海外に出ていくことが難しいこともあると思いますし、出ていかれたところで日本が良くなるとも思えない。

でもでも、こういう有り体な意見やある種の同調圧力をいくら否定したところで、これは国民性・文化が創ってきたものという側面も強いので、そう簡単に変えることはできないし、見方を変えれば日本独自の国民性として武器に変えていける可能性もあるわけで簡単に手放すものでもない(というか手放せない)。日本人の「変化や不確実性を受容しづらい国民性」故に見たくないものには蓋をしがち・皆が似たようなことを意見しがちですが、時代と世界の変化から目を背けることも難しいのであれば、「この国民性をどんな形や価値に変えて活かしていくか?」を考えた方がお得なのかもしれません。

【再会の夜を終えて…】

僕は彼にどんなアドバイスをしたかは、明確には覚えていません。というか、明確な答えなどはじめから無いな…と、ずっと思いながら聞いていたのです。悩むことができるというのは強さの裏返しです。ならば思いっきり悩めば良い。教育に関わってみたいならば、関わるという選択肢もあるし、工夫と意志によっては両方を同時にやれなくもない。納得いくまで考えれば良いし、また話したくなったら話しにくれば良い。確かそんなことを言ったと思います。納得は…多分全然してくれてないような表情でした(笑)

それにしても、なぜ10年間まるっきり会話もしていない僕を訪ねてくれたのか?僕は好奇心から聞いてみました。彼はこんな風に答えてくれました。

「本当に悩んで、でもこんな話誰が聞いてくれるんだろうって考えてみたんです。親とか、学校の先生とか先輩とか。でも誰もピンとこなくて…。こういう話をきちんと聞いてくれて、意見してくれるのってソガ先生しか浮かばなかったんです」

「だから俺、先生の会社のHPとか片っ端から見たんだけど先生何にもヒットしなくて…。で、諦めかけたんだけどSNSとかならヒットするんじゃないかと思って、ついさっきFacebook登録して検索してみたんです。そしたらやっと見つかって、その勢いでメールしたんですよ」

なんとまあ…(笑)沢山の嬉しさと、ほんのちょっぴり切ない気持ち。10年も時間が空いていたのに本当に困った時に頼ってくれる。こんなに嬉しいことはありません。一方で、悩んでいる彼に本気で向き合って耳を傾けてくれるという大人は彼の周りにはいなかったのか…。なんとも複雑な気持ちになりました。豊かな人生を送る決断をする時、「誰とやるか」「何をやるか」「いつやるか」などについて議論されることがありますが、僕はその全ての起点や影響は、やはり人にあると思います。付き合う人によって・相談する人によって人生はいかようにも変わってしまう。可能性と難しさの両方を常に感じるのが「人との出会い方」です。何かの縁で出会った教え子や保護者の方々、可能な限り時間を超えて向き合い議論し、学び合い続ける関係でありたいし、あらねばなぁ…。そんなことを思う夜になったのです。

あれから2年が経ちました。その後彼がどんな道を歩んでいるのか?今の所近況報告は聞けていません。が、便りがないのは良い知らせ…ってことかな?まあまだまだ若いし大丈夫とも思います(笑)というか、大人になっても何歳になっても悩んで、学んで、そしてまた考える人生は人間らしくて良いのです。「いやぁ、俺も大人になったなぁ…」とか言って心を亡くして、感性が老いていくよりは100倍マシな生き方が「悩み抜く人生」とも思うのです。

いつかまた、再会のその日まで!

あなたがこの先、10年以上かけてでも探求したい問いとはどのような問いですか?

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