見出し画像

大学入試改革は延期になったけど、学校の授業は変わることが気になって考えてみた結果、結局は好奇心と共にやってみることが大切だなぁ・・・を思い出した話 〜文科省と教育委員会と現場の先生と保護者に捧ぐ〜

今更ですが明けましておめでとうございます。

2020年になりました!

2020年といえば東京オリンピック!が全国的に・世界的にメジャーなトピックですが、教育的には「センター試験が無くなって新入試制度が始まる!」ということが大きな関心事になっていました。

僕は2000〜2002年あたりに始まった「教科書内容3割カット」の時の小学生や中学生の皆さんと一緒に勉強した記憶があるので、この手の話題には強い関心があります。(当時の体験から感じたことは後述します)

まあ、非常に残念な状況になっていますけどね・・・

新入試制度の延期は決定です。

ところが、ですよ。2020年4月から学校での学び(指導要領)は新しいものが全国で展開されると決まっており、ここに延期はないのです。

学校で学ぶことはこの春から着々と新しくなるのに、入試制度は変わらない。

この「ねじれ感」に不安を覚える学生の方・保護者の方はかなり多いはず。なので、直接文科省のキーマンにお会いして話を聞いてきました!

この対話イベントを通じて感じたこととか、2001〜2002年あたりでちびっ子達と学んで感じたこととか、具体的に考えた方が良さそうなこととか、綴ります。


【言葉だけ見ると「変わりすぎ」なのが不安…】

この春から小学5・6年生の英語は「教科」として(≒成績もつく)実施されますし、「プログラミング教育」も必修化です(この必修化という言葉が曲者)

他にも、2022年全面実施に向けた新設指導内容を見ていくと「消費者教育」「金融教育」「起業に関する教育」「国土に関する教育」「道徳」など、言葉を聞くだけで「え?ホンマでっか?誰がやるの?今の先生がやるの?できる??」と、思わず言いたくなるような科目名・単元名が並んでいるのです。

今回参加したイベントの中で、対話しながら思考を深めていくような時間がありました。学校の先生方と話をすると、やはり「全部できるのかな…」と不安を感じている方が思っている以上に多いことに気がつきます。

画像1

こういう「今までの学校教育では見たこともない言葉たち」が並ぶことが、先生も・保護者の方も・客観的に見ている大人の皆様も不安になってしまう原因の一つなのかも…。


【なぜ教育を語ると不安になるのか?】

日本人は変化を嫌う民族ですよね。もともと島国ですから、歴史的に見ても諸外国と比べて変化はかなり少なかったと考えることができます。こういう環境が安定をよしとする民族性を育んでいったのでしょう。

画像2

でも、時代は変わりました。国を跨ぐ移動も楽だし、移動せずともオンラインであらゆるものが繋がっています。そしてオンラインで全てが繋がる世界の先で、AI(人工知能)の発達→シンギュラリティ・Society5.0・第4次産業革命・VUCA Worldなどといった言葉が踊っています。確実に世の中は変化し、それに耐えうる教育を施さねばならない…と大人達が思い始めたわけです。

でも。

もう随分長いこと(130〜150年)変わってこなかった教育という仕組みで、前代未聞の変化が起きる社会と向き合っていく。それって流石に無理じゃない?だって変わってこなかったものを使って変えるってどういうこと?

「変化」と「教育」という言葉は下手をすれば水と油に思えるのかも。すると自然と教育自体がネガティブに捉えられる…という風に僕には見えるのです。


【お母さんは愛情に溢れているから保守的に見えてしまう】

新しい教育の仕組みや入試制度を不安がるお母様は沢山いらっしゃいます。僕もそんなお母様方の相談をたくさん受けたことがあります。で、お母様方の多くは我が子の将来について以下のようにおっしゃるのです。

普通の生活を送れるくらいにはなって欲しいだけなんです」

「やはり親ですから、我が子には幸せになって欲しいです」

「やっぱりちゃんとした企業に入ってちゃんと食べていければ良いですよね」

こういったセリフを聞くと、意識の高い人は「この時代にそんな甘いこといってるからダメなんだ!」「もう時代が変わっているのに・・・」と揶揄される方もいらっしゃいます。意見としては良くわかります。実際僕もそう思うことがあります。でも、ほとんどの人は自分の経験の中でしか判断・評価ができないものです。

お母さんは「保守的」なんじゃなくて我が子に必死で、でもアイディアが浮かばないから「考えられる最善」を選ぼうとした結果が旧態依然に見えてしまう。だってお母様方が学生だった頃・若かった頃は、それがかなりの確率で「良い生活」に繋がったわけですから。

僕も含めて多くの人は自分の経験でしか判断・評価ができないものである、という大前提を踏まえた上で、ちびっ子とか大学生の人たちと一緒に話してみる。考えてみる。彼らから学んでみる。追体験的に感じ取ることができるものも幾つかあり、それらが新しい判断軸・評価軸を生み出すタネになることも十分あり得ます。

あ、一つだけ注意。多分「幸せ」や「普通」や「ちゃんとしたもの」を定義してそれを追いかけることは危険。このフレームがあることで苦しんでいる人が、なんと多いことか…。一緒にやってみる。感じたことを大事にする。作られた偶像を追いかけ過ぎない。大人も子供も。

未来は教育ではなく共育によって作られる時代になったよ、とうことです。

画像3


【3割カットゆとり教育時代にちびっ子と挑戦したこと】

最初の方に書きましたが、僕は2001年の春から教科書3割カットが始まったちびっ子達と共に学んだ時がありました。当時、授業の前に教科書が変わること・内容が削減されること・その狙いなどをちびっ子達に話したことがありました。

当時小学6年生だった彼らの反応は冷ややかだったのをよく覚えています。クラスのエースであったしょう君(仮)はポツリと呟きます。

しょう君「先生…つまり僕らは実験の道具にされているんですよねw」

ソガ氏「うーん・・・そういう訳ではないし、捉え方だと思うんだよね…」

そうは言っても…と、しょう君の顔から不安と疑問の色は拭えませんでした。僕は1〜2ヶ月様子を見つつ、彼らと学ぶにあたり一つの結論を出しました。

ソガ氏「あのさ?俺考えたんだけど。教科書内容がどうであれ、折角だからお釣りがくるような勉強しよう。めっちゃ貯金作って困ることなくね?」

この提案を投げかけた時、ちびっ子達の反応は驚くほどポジティブでした。勉強量が増えるのに、です。教科書内容とか入試の出題範囲を超えて、自分たちが納得できてかつ面白い(←ここ、ポイントw)勉強をしていこう。それで入試の時に困ることなんて無いのだから。目指す方向がクリアになった時、ちびっ子達はとてもイキイキと変わっていったのを今でもよく覚えています。

で、当時どんなことを意識的にやったか?を思い出してみました。

①教科書内容を超えた学習は「好奇心」「大学でも役立ちそうか?」で実行
②月1回30〜60分全員と1:1の振り返り面談(と言う名の対話)
③新聞を読んで記事の要約とエッセイを書く→ソガ氏、文通形式で返却

この3つは彼らが中学生になってもずーっと続けたなぁ…と。特に②とかは、面談内容が勉強と離れる場合も多かった(笑)でも、豊かな時間だったな、と振り返って思います。恋の悩みも・親兄弟関係の悩みも・将来への不安も聞きました。でも、そういう時間が巡り巡って効率的な勉強に良い影響を与えたかな…とも思うのです。この代のちびっ子達とは小6から中3まで、4年間一緒に学びましたが、高校入試では驚異的な成果を勝ち取ることとなったのです。


【問いの不確実性と強度が価値になる時代】

そもそも論になりますが、教育の意味とはなんでしょうか?堅苦しいですが、教育基本法第5条には以下のようにあります。

社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする

簡単に言えば、「自立した人間になろうぜ!」というメッセージ。ここで大切なことは「自立ってどういうことなのか?」という問いにきちんと足を止めて考えることだと思います。例えば大企業に勤めること・公務員になること=自立した人間?これにはいろんな意見があると思いますが、これらに対してきちんと自分なりの考えや回答を手にしておくことが重要なのだと思います。

今回の新指導要領と来るべき21世紀=令和時代の本質的価値は、正解のない不確実な、そして考えごたえがあって脳に汗をかくような強い問いを立て続けることにあるのだと思うのです。それは受験勉強でも同じだと思います。そう考えると、例えば今中高生の方々が考えておいても良い「問い」って多分こんな感じ?

文系・理系という括り方がもたらす価値ってどんなものなのだろう?

人は環境で大きく変わるならば、大学の環境に期待することは?

21世紀最高の娯楽・労働・教育とは?

太古の昔からある「どこから来て、どこに行くのか?」という問いの意味は?

なんで人から褒められる・認められると気持ち良いのか?

大学行かなくても稼げる時代に学ぶ意味があるとすればそれは何?

なんでいつの時代も好きな人と過ごす1時間は一瞬なのか?

強度の強い問いを立てる。答えが出ない。それに興味関心を持って人が集まる。ワイワイやる。その繰り返しで成長や成果があるのかも。これってひょっとすると、戦後日本の闇市ですいとんを食べながら明日の日本をどうするか語り合った…とかいうものに似ているのかも。

そう思うと「学芸会」「井戸端会議」「闇市」みたいなものに未来が転がっている可能性は結構高い。問いを立て・皆で話し合い・行けそうならやってみる。うまく行かなかったらまた話して考える。そこに枠組みや制限は設けない。納得感と「なんとなくイイかも」を大切に。

他人からの洗脳や同調圧力で枠組みに拘るよりも、ずっと健全だと思いませんか?自ら楽しめる奴が、案外「自立している」のかもしれませんよ?

教育に未来を価値を感じて、記事で心が動いた方からのサポートは嬉しいです。いただいた信頼の形は、教育セミナーで使いたい本とかレゴとか…etcに使います!