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9月に読み終えた本

今回の記事の最後の本、『夏の夜の夢・間違いの喜劇』を読み終えて、さて次は何を読もうかと積んである本を眺めていた。そろそろシェイクスピア自身のことも知りたいので河合祥一郎『シェイクスピア』(中公新書)かなとも思ったが、異様な厚みの本が目に入り、ちょっと舐めてみるか……という感じで岸政彦編『東京の生活史』(筑摩書房)をとうとう開いた。
150人の語りを150人が聞いたものをまとめたもので、1216頁もある。開いてみると、まず、目次が、語りの中から任意の一文を抜き出してきたもので、いきなりそこで惹きつけられる。目次はいつもさらっと読んで概要を把握するだけなのだが、まずそこで一人ひとりの抜粋を読んでしまって、なかなか進まない。
もう深夜だったので最初の語りだけ読んだのだが、おそらく戦中生まれの、上海から引き上げてきた女性の語りで、上海のこと、家族のこと、ピアノのこと、とただただ人生であったことを断片的に語っているだけなのに、とてもおもしろい。聞き手とのやりとりも、微妙にすれ違ったりしていたりするところもそのまま掲載されていて、本当にこれはこの人が語ったんだなあということが伝わってくる。
こういうのは特別なことではなく、ああ、こういう生き方をしていた人がいたんだなあと思うだけではあるのだが、しかしその「生き方」は本当に人それぞれで、固有のものなのだ、というのがはっきりと分かるのはなんだか不思議なことだ、当たり前のことなのに。
あと149人分の語りが残っているので、ちょこちょこ読んでいきたい。

伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)

8月に読んだ『日本哲学の最前線』で取り上げられている哲学者の一人が伊藤亜紗で、この本も大きく取り上げられている。そこで書かれていたことがおもしろかったので、Kindleで積んでいたのを思い出して読んだ。
これは手でさわること、ふれることについて考えている本で、そのベースとして、哲学は伝統的に触覚というものを劣位にある感覚として捉えていたということがある。伊藤はこの本の中で、とくに人間にふれたりさわったりすることを中心としながら、触覚が「生成的」なコミュニケーションであることを論じていく。介助の現場やブラインドランナーの伴走で生ずる身体的なコミュニケーションが、介助-被介助という一方的な関係ではなく、お互いの内部に入り込みながら意味を理解し生成していくものであることが書かれていて、なるほどなと思う。
こういった関係を、「道徳」と「倫理」の関係として捉える(あるいはそこから身体的コミュニケーションを見る)のがこの本のおもしろいところだと思った。それが現れるのが第6章の「不埒な手」という、どうしても触覚が持ってしまう魅惑的、喚起的な特徴について(あらためて)書いた章で、「触覚が不道徳であるのは、単に道徳に反するからではありません。触覚が持っているのは、道徳が押し付けてくる規範を相対化する力です」という文にもあるように、「倫理」というものが事象に相対したときに取られる振る舞いであり、それは触覚の生成性とも近しいものがあるという指摘で、非常に重要な指摘だと思う。コロナがもたらした、接触することの危うさと違って、本来的にさわることふれることが持つ揺さぶりの力がとてもよくわかる。
少し前に同じ著者の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』を読んだが、詩を読むこと(声に出すこと)による身体の創造性についての探究が、この『手の倫理』にも脈々と流れていて、見事だなと思う。別に、テーマを変えないことが何より重要だとか言うつもりもないけど、伊藤のように「身体」というテーマに長く付き合って、変奏としていろんな本や研究が生まれていることがよくわかる著者に出会うと、すごいなあ、あっぱれだな、という気持ちになる。


松岡和子訳『マクベス シェイクスピア全集3』(ちくま文庫)

マクベスは名前だけ知ってるぐらいだったけれども、かなりおもしろかった。ハムレットは「狂気」がテーマのひとつだけれども、それが「演じられる」ものだったのに対して、マクベスの狂気は、現実なのか妄想なのかわからないままそこに入り込んでいってしまう様が描かれていて、緊張感がある。それを予言というかたちで最初に示しているのも、運命の逃れられなさみたいなものがこれでもかという感じで書かれているのもすごい。脚注で「きれいは汚い、汚いはきれい」(10頁)のような「両義性、あいまいな言い回し」(10頁*2)がこの作品の特徴として挙げられているけれども、現実-妄想、選択-予言のような相反するものがこの作品を駆動しているように感じる。訳者があとがきでマクベス夫妻を「一卵性夫婦」と呼んでいるが、役割や呵責を入れ替えながら破滅していくさまも、その両義性のひとつだろう。
筋を知らなかったこともあるけど、「予言」が最初になされているというのもあって、サスペンスを見るような感じで読めたのがおもしろかった。何作も続けて読んでみると、いろんな書かれ方があって、400年も読みつがれ演じつがれてきたものは伊達じゃないなと思う(小並感)。


岡田暁生『音楽の危機――《第九》が歌えなくなった日』(中公新書)

音楽学者である著者が、これまでの、そしてこれからの音楽のあり方を概観し、考察していく。
音楽における時間論、空間論を紙幅の半分ぐらいかけて書いており、おもしろい。例えばベートーヴェンの第九は後半にかけてどんどん盛り上がっていき、最後には「勝利宣言」で終わるような構造になっており、それはベートーヴェンの生きた時代(フランス革命を生きた世代である)と不可分であり、またそれを市民たちが大勢で共有する(大規模オーケストラと合唱、それを見る/聴く観客たち)ことで成り立つ曲のはじまりであり極致でもあった。20世紀以降はそのような人間万歳的なものは徐々に現実味を失い(二つの世界大戦)、右肩上がりの成長というような物語も失効する。
そのような時代にあって、またコロナによる「三密」回避の状況で、新たな時間概念への挑戦した音楽の紹介や、従来のホールのような空間を超えるような空間設計は可能かという問いがなされていて興味深い。『西洋音楽史』の時もそうだったが、サブスクで紹介された曲を聴きながら読んだ。
そして、この「危機」の時代にこそ新しい試みがなされるべきであり、やれるのだという希望も提示されていて、実際にそうなるといいなと思う。自分が普段行くアイドルマスターのライブも、もちろん配信されるのはとてもありがたいが、そういうリアル空間での挑戦をしていってくれるといいなと思いながら読んだ。


松岡和子訳『夏の夜の夢・間違いの喜劇 シェイクスピア全集4』(ちくま文庫)

ここでやっと喜劇。といってもシェクススピアの4大悲劇と言われるとなんとなく聞いたことがあるけれども、喜劇というとパッと出てこない、その程度の知識ではある。
「夏の夜の夢」はこの戯曲よりも、メンデルスゾーンの曲はわかるぞと言った感じで、筋はまったく知らなかったけど、読んでみるとなるほどという感じで、こういう話あるよね、となった(失礼)。だから「結婚行進曲」なのかと合点もいった。解説にあった劇中劇から人間たち、妖精たちに至る構造の相似の指摘はおもしろいなと思った。
「間違いの喜劇」は生き別れの双子(2組の双子)が入れ替わり立ち替わりすることで自分達や周りも巻き込んで大騒ぎみたいな話だが、こちらはテンポの良い台詞回しとか、この喜劇自体を支える人情噺みたいなものもあって、愉快だった。
「間違いの喜劇」は元ネタがあるとのことだけど、どちらの作品もいまでも書かれるような設定で話が書かれていて、物語の基本構造は昔からずっと変わらないんだなあということがよくわかっておもしろい。これまで読んだ悲劇もそうだけど、何百年も前でもそういうことろに親しみやおもしろみを感じるし、だからこそそれ以外の、キャラクターや台詞の独自性とか凄さがわかるのだなあという気がする。やっぱり伊達じゃあない(小並感)。