幼稚園児の自治

三人寄れば文殊の知恵と言うが、確かに、一般的には数人で議論をすると、一人の優秀な者よりも良い解決策が出る事がある。

たとえば西部開拓時代、4人乗りの馬車が途中で動かなくなったら、4人でどうすべきか相談したことだろう。そして今、国の方針を決定するために、国民全員の意見を訊く。

「それぞれ独立した知見と判断力を有する者」が大勢で話し合う事は、確かに健全だ。しかしそれには「独立した知見と判断力を有する者」という前提がある。

今、ひとつの国が何かを決定した時、それが地球規模で及ぼす影響なども含めて「判断力と知見を有する者」がどれだけ居るのか。

4人乗りの馬車なら、おそらくその西部開拓時代の4人は馬車の構造も、馬の扱い方も、次の街までの距離や天気についての知識もあるだろうから、その4人での相談は有益なものになるだろう。

では少し規模を大きくして、50人乗りのバスが故障した時にどうやって直すべきかを、自動車のメカニズムも何も知らない者も含めて50人の乗客で多数決する事に、どんな意味があるのだろうか。一人一人の独立した個人の意見が同等に尊重される事は、正しいのだろうか。平等に尊重されているという自己満足さえ得られれば、結果が悲劇でも納得出来る、という事か。

判断力というが、人類は相変わらず自己と他者を切り分けて「自分さえ良ければいい」と判断する個人や、団体や、国家に満ち溢れている。ロシアの様に。
「他の子のお菓子を、暴力で取り上げてでも自分だけで食べたい幼稚園児」の集団が、「我々一人一人の自由意志は尊重されなければならない。幼稚園の自治は我々だけで行う。」と宣言したら、その言葉に説得力はあるか。

ここにAIに政策立案を任せた国家が生まれたとする。
その国は、周辺国から見ると何の意味があるのか判らない決定を始める。
遠く離れた安い離島を購入する。存在感の薄い小国の元首と積極的に外交を進める、など。
ある日、それらの決定は、名人の指すチェスや将棋と同じ、大きな戦略の決定的な布石となって人々に理解される。

こうした国に、知見も判断力もない大衆の多数決で対抗する事は出来ない。

「欲」という、動物として数百万年の進化を経てきた人類がデフォルトで備えているもの、それでいていまだ個人を動かす巨大な動機となる「個の欲望」を「人の意思」として過大評価することは、幼稚園児の我欲を全肯定する様な事になりかねない。

動物として備わってきた欲を、意思と切り分け自ら抑制できて初めて、人類というサルは「パンツを履いた」と言えるのではないか。

感情を制御する技術も手にし始めている人類にとって、名著「サピエンス全史」の最も重要なメッセージは「我々は、何を望むか?ではなく、何を望みたいか?を考えなければならない。」という言葉だ。

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