大洗文学全集 第2巻
もとはアニメ『ガールズ&パンツァー』の舞台への興味だったのですが、一度訪れてみてその土地の魅力に断然惹かれてしまい、すっかり大洗という町のファンになってしまいました。
けれども、私は住まいが関東ではないので、おいそれと足を伸ばすというわけにもいきません。
それで、せめて大洗が登場する本を読んで、行ったつもりで気持ちだけでも盛り上げようと、紀行文や小説、エッセイで取り上げているものがないかと探す日々がはじまりました。
幸いにして、前回、ちょうど一年ほど前に、二度目の訪問がかなった際、幕末と明治の博物館にて、まさに私の希望にぴったりと合った展示が行われており、大洗の登場する明治から昭和の文学作品の数々が陳列されておりました。
石川達三『四十八歳の抵抗』もその中に含まれていた一冊でした。
著者と作品について
早速入手いたしまして、喜び勇んで読んでみたものの、肝心の大洗は待てど暮らせどなかなか姿を現しません。具体的にいうと、全体の八割ほどまでは気配さえないという有様です。
そこで、大洗が実際に登場する場面の前に、著者と作品の概略をざっくり紹介しておきます。
まず著者は石川達三。1905年(明治38年)-1985年(昭和60年)。昭和初期のブラジル移民を経験し、それをもとにした小説「蒼氓」で芥川賞を受賞、太平洋戦争中やそれ以後も新聞小説を大きく活躍の場とし、ルポルタージュや風俗小説で名を馳せました。
『四十八歳の抵抗』は「読売新聞」朝刊に昭和三十年十一月十六日から翌年四月十三日まで掲載され、後に単行本化された、連載の場、内容、また著者も五十に足が掛かった頃ということもあり、最も闊達に筆の振るえた作品のひとつと挙げられるでしょう。
その内容については、新潮文庫版「解説」の久保田正文がとても簡潔に書いてくれています。
概ねこの通りです。
主人公西村耕太郎は妻さと子と娘の二十三歳になる娘の理枝と東京で三人暮らし。保険会社の次長を務める四十八歳。仕事も家庭もそつなくこなしているものの、心身の衰えと迫る定年に、閉塞感と焦りをそこはかとなく抱いている。それを埋めるような行動を、具体的には年下の女性との不倫を、部下や飲み屋のママからそそのかされ、自分も大いにその気になったものの、従来の押しの弱さや娘のトラブルによって失敗に終わる。
一種の通俗小説で、こういう機会でもなければ手を取ることさえなく、ましてや読むなんて考えもつかなかったでしょうから、大洗という舞台が間を取り持ってくれたことは大いに感謝しています。
『四十八歳の抵抗』の大洗
五十がらみの中年男性が、最後の一花のつもりで自分の子供ほどの娘と不倫をしたいのだけれども、世間体や先立つものの算段に煮え切らない思いをするという情景を延々と二百五十ページばかり読んできたところで、ようやく大洗が登場します。
一人娘の理枝が年下で未成年の大学生能代敬との交際を反対されたことで家を出て駆け落ちしてしまい、その逃げた先というのが大洗なのです。
娘が逃避した先からよこした手紙が、その名前の出はじめです。
娘の身を案じた母がやや混乱してのセリフだというのを斟酌しても、東京在住の人間の口から出ていると考えますと、やっと登場したと思ったところがなかなかひどい書きようだといわざるをえません。
しかし扱いの悪さはここに留まらず、妻のこのセリフを受けての主人公耕太郎の、「磯で名所は大洗さまだから、漁師まちだろう。何でそんなところへ行ったのかね」もかなりなものですし、なにより、とにもかくにも娘の後を追って大洗に到着してからの場景が酷過ぎます。
悪意さえ感じる描写といわざるをえません。
しかし、折角大洗を登場させたのは、このような鄙びた漁師町の姿を強調させるためだったのでしょうか。親に歯向かう思慮の足りない子どもの落ち行く先を、象徴的に表したかったのでしょうか。
そう単純なことでもないように感じます。そのあたりを考えるには、もう一ヶ所、本作に舞台として使用されている土地についてを知らなければなりません。
それが熱海です。
『四十八歳の抵抗』の熱海
熱海は『四十八歳の抵抗』の冒頭から登場します。会社の慰安旅行の行き先として、温泉や娯楽、酒場などおよそ遊ぶためのあらゆる施設が存在する繁華の場に設定され、
と書くように、集積された富が発散される目標の土地でもあります。
主人公は少々食傷気味であるとはされていますが、既に三十回以上も通っているとされ、その繁栄ぶりは、延々とくり返される社員たちの宴会や乱痴気騒ぎぶりからも伝わってきます。
しかも、この熱海は二十年前に主人公がかつて新婚旅行に訪れた土地であり、かつ物語終盤でとうとう不倫を決行して若い女性を伴って訪れる土地でもあります。
場所も東京から見て南西にあたり、北東の大洗とはまさに対照的な立ち位置となっています。
過去と現在と未来と
けれども本文中の熱海と大洗を比較すると、華美で繁栄する遊興地と素朴で閑静な漁師町という単なる二項対立に収まっていないことが見えてきます。
それが最も端的に表されているのが海の描写です。
熱海に到着して早々の文章ですが、ホテルや旅館、飲み屋などの建物が林立して、海がほとんど見えない、そして、以降も主人公は熱海の街を方々歩きまわったり車で移動したりするのですが、そこでも海が景色に現れることはなく、それどころか波の音や潮の香りもほとんど感じさせません。
これに対して大洗ではどうか。前に引用した散々な町の場景描写は、次のように続きます。
熱海と対照をなしていることは明らかです。浜ホテルが駆け落ちした娘の身を寄せている場所ですが、そこにたどり着くより先にまず海に出迎えられます。まずホテルに着いて、それから能動的に探さないと見えない海とはまったく異なり、視覚だけでなく聴覚とそして触覚にも訴えかけてくる、全身で存在感を受け止めさせられる海です。
しかし、この海の描写の差が表すものは一体何なのでしょうか。
それは大洗の海について続く文章で、さらにはっきりします。
海はエネルギーであり、それが圧倒的なまでに押し寄せてきています。この鄙びた漁師町のはずの大洗という土地に。
「三十遍もそれ以上も行ったことがある。街のどこに何があるか、大抵の事は知っている」熱海。「熱海の街でどの程度のことが起り得るか、それも知っていた。芸者と娼婦と酒と温泉と、それ以外のものは何もないのだ」と断言できてしまう歓楽の街の、上辺ばかりの隆盛のなかでは感じられない活力が大洗に満ちていることに正面から向き合わせられてしまい呆然とするしかなくなってしまいます。
虚飾の街、もしくは「西村耕太郎が原田さと子と結婚して、新婚旅行にやって来たのがこのホテルだった」と過去に置き去りにした夢の眠る土地として位置づけられているのが熱海であり、その目は常に現在から過去に向けられています。
それに対して、未知の土地であり、かつ娘とその年下の彼氏という主人公の抱える常識では測り知れない二人が逃げ落ちた先である大洗は、現在から未来へ向かう土地としての一面も持っているといえるでしょう。
そしてその未来が必ずしも破綻や絶望を意味しているわけではないのは、「アメリカまで続く太平洋が、じかにこの町に迫って」いる大洗という位置づけからしてもうかがえます。昭和三十年という時代において、アメリカは自由と民主主義の象徴であり、富と力の代表ともいえる場所であり、そのアメリカと大洗がリンクされる。
それまでの熱海と大洗の対比を大きく逆転させるのが、この海との、ひいてはアメリカとの関係性でした。
大洗とアメリカ
しかし太平洋に面していればアメリカへは続いているといえるんだから、別に大洗の専売特許というわけじゃない。熱海だって十分にその条件を満たしているじゃないか。という声が上がるかもしれません。
けれども、大洗がアメリカに通じているというのは、別に石川達三の独創というわけではなく、むしろ明治となる以前、黒船来航よりさらに早い時期から育まれてきた共通認識でもあったのです。
この点につきましては大洗の郷土研究誌『大洗の本』第3号に掲載されている加倉井東・浅井敦「海の向こうのアメリカ」に詳しく記されています。
概略は以下の通りです。
松浦静山の『甲子夜話』にも収録されているように、幕末の頃より異国船が現れる機会の多くなった海岸線を有する水戸藩では、その脅威にさらされることが尊王攘夷の思想の揺籃のきっかけとなり、大洗の各地においても海防施設がいくつも建設された。
その海防の要衝としてのイメージは、やがて開国・維新を経た後には海外、特にアメリカとの結びつきが強いという形にスライドしていった。
その結果、精神的なアメリカへの玄関口として大洗は見なされるようになっていった。
「海の向こうのアメリカ」では、明治期から二松学舎大学の創建者三島中洲、正岡子規、大正期の山村暮鳥などの資料を挙げて、特に関東周辺に限らず日本全国の人々の共通認識としてアメリカと海でつながる大洗が認識されていたことを示しています。
例えば愛媛の松山出身の御存知正岡子規が大洗旅行で残した俳句がその最もわかりやすい表れではないでしょうか。
明治二十二年四月の水戸旅行の思い出を書いた「水戸紀行」に収められている一句です。
こうして明治開化から大正、昭和戦前期を通じてアメリカを最も近く感じる土地として大洗は存在し続けました。
このパブリックイメージは第二次世界大戦をはさんだ後も維持されます。
例えば井上靖の昭和二十八年に発表された短編「大洗の月」では、主人公が泊まったホテルの説明に、
とあるのですが、これは大洗ホテルの実話に基づいています。
皮肉にも日米と立場がまったく逆転しているとはいえ、やはり防衛の要として大洗はアメリカとの関係を持ち続けていたのでした。
石川達三の『四十八歳の抵抗』は、そんなアメリカを望むにあたり最も接近した地点としての大洗のイメージを、昭和三十年代においても引き継いだ作品なのでありました。
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