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子規の夢見た(かもしれない)地獄

 正岡子規が明治32(1899)年に発表した短章「墓」は、病の末に亡くなった男が墓の下から、というよりは墓そのものになって、死後の身のまわりや時代の移り変わりを見つめ続けるという、少々縁起のよくないタイトルながら諧謔の利いたメルヘン小説です。
 話はモノローグでテンポよく進んでゆき、死をテーマにしながらも悲壮感は薄く、皮肉や風刺をおりまぜて子規の持つユーモアをたっぷり堪能させてくれます。

 亡くなった直後の主人公は、土の下に埋められたはいいものの、これからなにをどうしたら、どこへ行くにしてもどう行ったらいいかわからず、途方に暮れてひとりごとをつぶやきます。

 ヤ、音がするゴーというのは汽車のようだがこれが十万億土を横貫したという汽車かも知れない。それなら時々地獄極楽を見物にいって気晴らしするのもおつだが、しかし方角が分らないテ。めったに闇の中を歩行いて血の池なんかに落ちようものなら百年目だ。こんな事なら円遊に細しく聞いて来るのだッた。

(阿部昭・編『正岡子規随筆選 飯待つ間』岩波文庫、1985)

 そこまで読んでおりますと、ふと「なぜ円遊の名前が?」と疑問が浮かびました。
 字面だけですと子規に近しい俳人かもしくは僧侶の名前とも思えますが、ここに書かれている円遊とは三遊亭円遊、落語家です。

 もともと正岡子規は寄席好きで、故郷の愛媛から上京以来、かつての東京にあった多くの寄席に落語や講談目当てに足繁く通っていました。また終生の盟友となる夏目漱石との出会いも、そもそもが寄席のとりもった縁によりますから、文章内に落語家の名前が出てくるのはさほど不思議ではありません。そもそもこの「墓」自体が「落語生」というペンネームで書かれています。

 とはいえ死後の世界の話をしているところに落語家が現れるのは少々唐突です。
 一体どういうことだろうと資料を調べてみましたところ、三遊亭円遊という名跡は代々「地獄めぐり」という噺をお家芸としているとのことでした。おそらくそのあたりから明治前期頃には一種地獄案内のエキスパートのように見なされていたのでしょう。

「地獄めぐり」は医術の研鑽のために諸国を旅した医師が、その修行の末に獲得した秘術によってあの世の光景を庭先に展開して見せ、賽の河原や三途の川でもろもろの有名人との出会いや、閻魔大王の裁きの風景の後に、人呑鬼に丸飲みにされるという判決の模様を見学する噺になっています

 プロットはシンプルで内容はあってないようなものです。これは話の筋を聞かせるというよりは、ギャグやジョークを矢継ぎ早に聞かせることに重点が置かれているからです。それだけに盛り込んだ笑いでとっちらかった印象を持たせないよう、客の意識を操作する巧みな話術が要求される噺になります。
 そういう中身ですから、ところどころで登場する実在の有名人や趣向は時代ごとによって、それどころか演者によっても大きく変わってきて、当時の流行や時勢を反映したものになります。

 今現在ですと「地獄めぐり」をよく高座でかけ、CDに録音までしてくれているのは落語界のトロピカルダンディーこと古今亭寿輔です。
 何がトロピカルダンディーかは、こちらのCDジャケット御覧になれば一目瞭然かと思います。

『新潮落語倶楽部9 古今亭寿輔』(PCCG-01035)
『古今亭寿輔 トロピカル・ドリーム』(KNCZ-83003、83004)

 ところが同じタイトルながら内容は円遊のものとはかなり変わっています。
 なにしろ冒頭の医者のくだりもオチの人呑鬼もカットされて、あの世の場景を絶え間なく描いてゆくことに終始するタイトル通りの内容となっています。
 もっともこれがとぼけた口ぶりの中でおかしさを積み上げてゆく寿輔にぴたりと合っておりまして、あちらこちらと場面が展開する割にはどことなくのんびりとした地獄観光を楽しむことができます。

 ちなみにこの改作において寿輔が参考にしたのは上方落語の「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」です。

 タイトルはものものしく大時代的で、なんとなく仮名草子や歌舞伎の題を思い浮かべてしまいますが、それもそのはずで、原型は江戸時代にまでさかのぼれる古い噺です。
 全編通せば七十分を超える上方落語でも屈指の大ネタに数えられます。
 実は、この「地獄八景亡者戯」を、初代の三遊亭円遊が江戸に移植して、その際にぐっと縮めてできあがったのが「地獄めぐり」なのです。
 じゃあ、古今亭寿輔の「地獄めぐり」は先祖返りをしたものかというと、そうとも言い切れないややこしい事情があります。

 上方落語は第二次世界大戦後、演者もわずかで絶滅間近という時期がありました。
 多くの噺もその際断絶の危機に瀕しておりました。特に「地獄八景亡者戯」はなにしろ長編のうえ、音曲をふんだんに使わないといけないというダブルの制約で、伝えている人はさらに少なくまさに風前の灯火でした。そんななかで戦後中興の祖の一人である桂米朝三代目笑福亭福松からなんとか教えを受けたものの、噺の性質上そのままやるわけにもいかず、手を入れて再構成しなおしたという経緯があります。

 ですので「地獄八景亡者戯」という演題こそ同じでも、現在聴かれる内容は過去のものとは異なっているわけです。
 古今亭寿輔も、初代円遊同様に「地獄八景亡者戯」をベースにしているのですが、参考にしているのは米朝のものなので、同じ「地獄めぐり」でもまるで違う姿を見せます。

 なんとなく地獄というテーマを中心としながら、過去と現在がつながるようで微妙につながり合わず、延々とぐるぐると巡り巡っているような、ああこれが無間地獄なのかと変に納得させられそうになります。

 なので地獄を舞台にした落語は東西で「地獄めぐり」と「地獄八景亡者戯」の二種類がありますが、現在はどちらもベースは桂米朝の「地獄八景亡者戯」になっているわけです。
 その「地獄八景亡者戯」は桂米朝をはじめ上方落語の噺家によって多く演じられ、CDでも数々の録音が残されています。例としまして、桂枝雀桂吉朝のものを。

『枝雀落語大全 第十集』(TOCF-55020)
『桂吉朝 おとしばなし「吉朝庵」その1』(TOCZ-5187)

 さらには桂文珍桂文我も録音を残し、江戸落語では立川生志がDVDを出していたりもして、いよいよ関西流の地獄が全国津々浦々に広がっています。

 すっかり正岡子規から遠のいてしまいました。
 もっとも子規は明治初期に日本に伝えられたばかりの野球に熱中したり、エッセイではSFちっくな「四百年後の東京」や、東京から愛媛松山まで文字通り夢の超特急で帰省する「初夢」なんていうものも書いたりもしていまして、新しいもの好きで未来志向の一面も持っていました。
 ましてや上方と江戸の双方の今昔を行ったり来たりする落語の地獄めぐりを通してなら、令和の現在に私たちが想像する地獄も、百二十年前の明治に子規がのぞこうとした景色と案外隔たってはいないのかもしれません。

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