自分自身を誰よりも知りたいという挨拶

自分自身お化け。他人の事より自分の強化。
あくまで自分が見ているのは、自分自身のできる事を徹底した先にある。

なんといえばいいのか、ここまで自分自身のドロドロした部分と相対するのは何度目だろうか。殴り書きは私の想像力をさらに磨きをかけ、丁寧に整理することは私の整理欲をさらに磨きをかけてくれる。

私にとっては私が一番。
だけど、価値観としては自己の生きやすさの為に皆の力を借りる事こそ、
信念という立場ではこれを遂行する。
自分自身が自分自身の全てを補えてないことは、
誰でもない自分自身が痛いほどによく体験したところだからだ。

得意な事はなんなのか。
誰かにとって、私が頑張らずとも、ありがとう。と言われる。
小学生の時は色々あったが、正直私は小学生の頃、特に自分の想像を、
絵を描き文にしたためる事が市内の賞に応募されることになったり、
何故か自由にやったものが取り上げられてる。

これは正直、とくに「頑張っている」感じが全くもってしない。
何故だろう。なにがそう、取り上げられているのだろう。
だれも教えてくれない。僕自身が取り上げた人の元へ行き、聴けばよかったという考えが、思いが、ずっと頭を過る。

時はとっくに13年が過ぎた。不安も徐々になくなるモノもあれば、どんどん書きたいものを自由に書いていいものなのだろうか。

言葉の世界で生きていく。ただこれだけは、誰にも譲れない。

好きな事はなんなのか。
ワタシの想像欲を喚起し歓喜させ換気してくれる、誰かが作った創作物。
自分の気持ちをこれでもかと創作した世界にその人自身の世界をぶち込めてくれる。即ち魂の弾丸。引き金を引いた瞬間に薬莢が宙を舞い、気づけば心の臓を深々と抉ってくれるような。それでいて自分の本心を引き出してくれるような。そんな言葉の世界に身を置くこと。そのものが好き。

そしてそれを、やってみたい。体現する。その行動をとって実現した自分が好きすぎて、これはマジックではなく魔術であり、ロジックであるという回路的性質に、魂を鼓舞させてくれる。そのイメージが私の生きる世界を事細かに定めてくれる。

ワタシのこの衝動は、実を言うと、「13歳の頃から7年にも渡って封じてしまっていた」という事実がある。そして、その封印の対象だったのは、株式会社ATLUSが誇るゲーム、ペルソナ5。私の記憶違いではない。
私は確かにその場にいたのだ。それが世界に公開されたタイミングで。

さらに私はこうも思ったのだ。
「なんだコレ!?!?!? かっけぇ...…」

その時から私の解放のドラムはさらにBPMを高く高く設定し、
今か今かと買うタイミングを見計らい。

中学生の最初の衝動は、
13歳の頃に自分理解の道を歩き始め、
心理学の本を買い、自分の行動・体験を結び付けながら3年間学び。
そこの中で、言葉についての「解釈」と「表現」の「情報処理(もっと詳しく言うと、自己入力・自己出力)」を徹底的に学ぶことにした。

そして来るべき15歳。高校進学。
自己情報を徹底的に調べるための学科が「情報処理科」という固定観念を持ち、そうでなくともこの科目名から連想されることは、プログラミング等といったシステムそのものを学ぶことが出来る環境であるという事。間接的に私の理解に影響を与えるから良し。という自己納得で歩みを進めたのだが、

やらかした商業高校生」となったのは入学後間もなくのことだった。

学校に入ってみれば、簿記の授業ばかり。
当時の私はネットで趣味レベルの歌を楽しむ活動も勿論の事、小説のネタになるからとりあえず高校3年までは頑張るか。と、なんだかんだやってみたり。周りとワイワイすることが苦手かつ、自分自身と向き合う為に他の人ととの付き合いを楽しみたいというモノ好きな内向型人間にとっては、

楽しめるのはボードゲームの上だけ。
その時、ネットという文明の利器に対し、体験という素晴らしい形で必要性を感じ取る事ができて本当の意味で感謝をもてたのが初めてだった。

たしかにBOT(機械の手。相手が人間であればあるほど、それは相対するプレイヤーの心に不気味さ、歪さを与える無機質な手)の場合もある。

だが、自分たちがもつ10分という時間の中で、張り詰める盤上での空気感。
相手の玉を詰ますというゲームルールから、相手の飛車を潰すというゲームルールに自分の中で変更し楽しんだ過去。同じ年代の将棋をプレイするコミュニティに入り、毎晩戦い、地味な耐久の中から相手のミスを誘い、それが成立した過去の戦い(当時は5級の人間が、段に入った直後の方に噛ませた戦いだったから尚更記憶に残る)、時には慣れ親しんだやり方から、もう一つのやり方を試してみたりと、9x9の盤上の中にも、色んな楽しみ方。

その楽しみ方は、自分が負けても勝っても、一つだけに限らず存在した。

そして、忘れもしない高校3年の夏。初めてスマホを購入してもらった。
私は当時、中学1年の頃にゲーム依存になり、その状態を自分で認識できるという気持ちの悪い精神状態になった事がある。
実際にゲーム依存を自覚し、その感覚が体を出るまで、初めて自分自身のココロと体、この二つと戦った。辛かった。けど、依存という状態が苦しかったのも覚えてる。やりたくないのにやってしまう。そんな感覚が頭にも体にもトンデモナイ負担を与えてくる。

そこで、人って何かに依存しないと生きていけない。という、
考え方の文野の扉を開くという第一の体験をした。

そして、隔離・依存先の変更という2種類の対応策を自らの体を使って検証することになる。

隔離としては、そもそも私が干渉できない。即ち物的距離を利用する。
という性質を利用し、さらに私ではない別の者に力を借りることにした。
副次的な発見として、そこに在籍する者でない限りはそこの入出制限に法的規則をかけられる場所を利用し、何重にもハードロックをかけられる事を体験かつ発見し、一瞬の出来事ではあったが「敵ながらあっぱれ」という状態を獲得することが出来た。

問題となったのは、高校3年の夏。
私は初めて、自分のスマホを持つことになったのだが、
以前のゲーム依存という歴もあり、怖さを覚え、もう二度とデジタルを使いたくないとさえも思えてしまった。
 
ちなみに。私の高校時代と中学時代は、ゲームより本そのもの、体験そのものを基にした学習にしか興味がなく、21の今の状態を持って振り返ると、かなりストイックな生活を6年にも渡って送っていたなと思う。

ただし、苦手な人間関係のストレスへの対処で暴飲暴食気味だったり、自分へのネガティブヘイトを向けすぎで最高87キロまで体重が増加。高校を終わらせたことにより80kg近くまで減少。(21歳現在は、ネガティブヘイトの応用。矛先の環境調整と、高校最後で起こった鬱状態の軽度の再現に成功し、66キロまでダイエット成功。これが、関東甲信地方への修行で行ったことの中身にも入ってます)。

精神回復まで3カ月は余裕でかかるなと再認識。
ただこれをやったことがない人間がグチグチ話してたりするので、
ついでに危険性の問題も話しておくと、

下手すれば、殺人意欲に凹んでいる状態の反動の力をシフトチェンジして1人&一時の解釈のお陰で人生棒に振ってしまったり
(注釈:人間の思い込みの力は絶大なので、軽視しない方が身のためだよ)

逆に、
自己犠牲に感極まった一時の瞬間に身を任せ、投げるタイミングではないのに早とちりして命を絶ったり。

僕は事例も知ってるし、
いつも温かい料理を振る舞ってくれて、最後まで何も言わず話を聞いてくれる人。そんな人が、その人の親近関係で喪失経験をして文字通り体に力が入ってない状態を目視した事だってある。それに、やけに空気が冷えてるって小説でもある表現を体験した過去もある。

だからこそ、自分のココロの理解を舐めないで欲しい。
他者の心境の変化を舐めないで欲しい。

今生きていることが楽しい。その言葉に、無数の体験と感情を、今すぐにでも結び付けて欲しい。そして明日、もう命がなくなる。という状態を体感して欲しい。

13歳。それが、僕が僕の人生で初めて体感した、僕以外の心の火の温かさに触れた体験です。

……なーんか暗いねっ!
まあ、自分自身をしりたい欲求に対して一番の理由は、
自分がボードゲームだったり、適当に遊んでる中で、なんか「身が入って」きて、強敵認定、難題と向き合ってきたからこそ、
ちょっとランクが高い自分に対して少しずつ確実に近づいてきたから、

もっともっと自分を知って、もっともっと今の自分を超えたい。
もっともっとできるようになって、もっともっと自分を表現できるように。

なにが原因でこういうような思考を身に着けたかは分かんない。
何が原因で、この状況になってそれでも尚、誰かに助けを求め続けてるのかは分かんない。

ただ一つ言える事なのは、

こんな「自分自身を誰よりも知りたい人間」が、「自分を知るために誰かを欲している事」。

かっこよく言うと、そっくりそのままの自分と対戦しまくるのもいいけど、
自分らしさ(相手自身の自分らしさ・自分との似ている所)を内包しながらも、さらにそれを別方向、別次元で体現している相手の存在。
そういうのがどうしても必要なわけ。

なんでか。

それは、ボードゲームでの戦いの場面でも触れたけど、
対戦する相手がいないと戦いなんて成り立たないわけ。

そして昔やってて今の今まで忘れてたことを思い出した。
昔の自分が出来てて、今の自分が出来てない事。

それは、「よろしくお願いします」「ありがとうございました」
自分だけではなく、相手がいるからこそ見つけられる事。

意識しすぎも、意識しなさすぎも、自分っていう存在を無意識に閉じ込めちゃう。

だから、自分への挨拶、そして、相手への挨拶が重要なわけ。
その点はこれからの自分がまず最初に気を付けるべきことだね。

自分自身を知るという探求もなんでも、如何に自分自身を修めるか。
その上で、脱力した全力をだす。
脱力系の武術も、またもう一回習いたいな。

携帯式ドグラ・マグラの、閑話休題の一章。
見てくれて、本当にありがとうございました。

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