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概念から組み立て直す、という挑戦

おかげさまで日々いろんな方々から気付かされることが多い。
今までは「わかってるよ、そんなこと」みたいな態度で聞いていた節はあったし、実際そう思っていた。
ただ、最近になっていろいろ自分の底が見えてきた、というか限界とかではなく、よく言えばそこから先は伸び代みたいな境界か見えてきた、とでも言うのか。
そのおかげで、その先に待っているであろうステップのレベルのお話の聞き方がわかってきた。気がする…。

決して興味がなかったわけではないのに、改めて聞くと「なんでこの話をこれまで聞こうとしなかったのだろう」ということに気付いて愕然とする。
同時に自分の考えていることなんて、やっぱり誰かが先に考えてたんだな、とか改めて自分のポジションを意識させられることが増えてきた。
謙虚になっていてほしいと自分で思うのだが、きっとまだまだそれを「ようやく許した」段階なのかもしれぬ。

体制とかシステムとかじゃない

さて、ぼくがどうである話はどうでもよくて、目から鱗、もしくは今までうまくいい得なかったことが、タイトルの「概念から組み立て直す」という発想、もしくは言葉なのだ。

なんでもそうなのだが、日本という国はひとついい言葉があると一斉に乗っかる慣習がある。
今はまさにぼくが直面しているのが「まちおこし」という言葉。
ローカルなイベントでは基本的にはこの言葉が使われ、そのために「外部」の力を使って盛り上げようとするやり方もある。
「興す」ためなら手段を問わないのは至って合理的なのだが、使う側の姿勢が問われることに気付いていないことが多かったりするものだから、実は「まちおこし」を謳って借り物競走をしているイベントは、失敗の理由さえも借りてきたものにしてしまう。そして、それを持ち主に押し付けるきらいがあると感じるのはぼくだけだろうか。

で、この「まちおこし」という行為や言葉そのものを否定したいのではなくて、その本質的な意味や仕組みや価値を考え直そう、という概念こそが本当の「まちおこし」の種ではないのか、ということ。
それを教えてもらった言葉で言うと、「ひとづくり」であるのだ。

この「ひとづくり」は、教育的な意味だけで捉えていては「まちおこし」と同じ顛末を迎えるのだが、「知識や経験」だけを教えるのではなく、「どこで、どのように、どんな未来を描いて生きるのか」をしっかりとイメージし、変な既成概念に囚われずに判断して行動できる人を育てることだと思うのだ。

そんな人たちが集まって、その土地が注目され、自然と活気づいていく。
いや、ひょっとしたら活気づくことがもはや「興す」ことではない世界を築いているかもしれない。
そんな可能性さえも信じたくなるような概念、価値観を意識することが必要ではないだろうか。

既成概念を壊すでもない

結局のところ、この考え方というのは、本質的なことを見定め判断するという意味において、そこから概念の組み立て直しを行わないと、そもそも受け入れることは難しくなってしまう。
だから、これからやるべきことは、その態勢を少しずつ浸透させていく活動なのかもしれない。

日本で「芸事は金にならない」と言われ続けているが、金になる社会にスルッとなるかもしれないし、何なら金になることそのものが価値を下げるかもしれない。
至って静止した価値観を抱え続けることは、おそらくこの社会では滅びていく大きな要因なのかもしれない。
価値観をかえることは、筋をブレさせることではないし、人類の進化の歴史を見ればわかる通り、至極当然のことなのだ。

ということで、新しい考えや議題には積極的に心を開いていこうと思ったわけである。

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