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映画:ダゲール街の人々~分断されていない関係っていいよね~

ダゲール街の人々は、アニエス・ヴァルダ監督のドキュメンタリ―作品。当時監督が実際に住んでいた「ダゲール街」を映した作品。

わりと無目的なドキュメンタリー作品で、とはいってももちろん監督がこういう場面を収めたい、とか、こういう効果を狙った編集がしたいってことは十分に練られていると思う。
僕はそういういい加減に作ったという意味で無目的と言いたいのではなくて、例えば森達也の「A」という映画。あれは強烈に目的意識があって作られたものだと思う。もちろん森さんの中でもともと撮りたかったものは変わっていったと思うし、監督/文筆家の森達也の作家性と言えば、取材の中で自分が悩みながら作品にしていくさまを隠さないことだ。
でもダゲール街の人々という映画はそれとは全然違う。街に住む人々の、多分明日も同じく繰り返されるであろう日常を映している。なにか強烈なキャンペーンをはるのではなく、街を映すことで見えてくるものがある。


出てくる店が結構狭く、70年代のものすごくでかいカメラをよく店の中に入れることができたな、なんて邪魔な考えはよそうと思ったが、しかし大きなカメラには緊張感というか、圧がある。カメラが圧をかけるということは、そこに写る人々の行動に大きな影響を及ぼすということだ。
でもダゲール街の人々はとてもリラックスしてカメラの前に現れる。そうするとまるでカメラ越しではなく、自分自身の目で見ているような、むしろ自分の目よりもより純粋に、からだが透明になってそこに立っているかのように感じてしまう。とても不思議だ。


印象に残るのは、実は冒頭にもちょっぴり出てきた黒いマントの魔術師が――じつはマジシャンでございまして――街のみんなを集めてマジックショーを行う場面だ。この場面は結構長いうえに、途中、様々な場面がモンタージュされていくため、後半はほぼマジックショーを軸に作品が構成されている。
てっきりワンダー正光的な食わせ物の登場かと思ったらただのマジシャンであった彼は、街のみんなの前で様々なマジックをする。体が硬くなるマジックや、後ろで控えるマジシャンに向かっておばあさんが勇気を出して倒れるというよくわからない演目もあるが、街のみんなを巻き込んでマジックショーは進んでいく。
これが劇映画だったらこれに感動した少年がマジック修行の旅に出たり、マジックを魔術と勘違いした人々が新たな信仰を作ったり(デニスホッパーのラストムービー?)するものだが、この映画ではそんなことはなくみんなマジックを楽しむ。


マジックが進むと、関係ない場面がぽつぽつと挿入される。ここにモンタージュされる場面は、皆一様に生活をしている。ピザ屋のおじさんなどぼろぼろのシャツを着て窯で生地を焼き、結構体力を使いそうである(本人と家族は楽しそうでよい)。
そんな場面の後、マジックで驚いたり、喜んだりする人たちの顔が映る。日常と非日常が移り変わり、ほとんど暴力的なほどだ。それでも、その暴力にさらされても僕が無傷で済んだのは、この町がシステムや資本主義や巨大産業に飲み込まれていない、自分の背骨でシャキッと立った街だからだろう。かっこいい。


ダゲール街は下町ではあるがパリにあり、そこそこ栄えているのだ。日本で言うと東京の中央線沿いとかがそうだろうか。中央線沿いとは違って、特にサブカルの町ではないが、街はのどかで庶民的な文化の雰囲気がある。
当然コンビニは出てこないし、スーパーも出ない。テレビも思い出す限りは出てこなかった(出てたらすみません)。代わりに移るのは、その場所に歴史をもって商いをし、香水や、肉やパンを作っている人たちだ。かれらはシステムではなく人間だから、会話をして自分が欲しいものを伝えなければならない。タッチパネルで注文しネコロボットが配膳してくるここ1、2年の日本のレストランの正反対だ。
別に僕はタッチパネルで注文とかが非人間的で嫌だ、とまで思っているわけではない。が、老人に若者(ヴァルダの娘)が話しかけてプレゼント用の香水を調合してもらうあの場面が、いまコミュニケーションとして成り立つのだろうか?


精肉店の場面が僕は気に入っている。いろんな人が肉を買いに来るのだが、スーパーでの経済活動に慣れてしまった僕が行くと考えたら、非常にコミュニケーションを求められて難しいな(別にこの店に問題があるとかではなくて)と思った。
何の肉が欲しい、とかは決めていても、店主から「~~はどうしますかい?」なんて何か自分にはわかりかねることを聞かれたとき、世の中にびくびくする若者である僕は、冷や汗をかいて店を飛び出し、ダゲール街には二度と足を運ばない。
でも町の人々は流ちょうに肉屋と話し、お望みの肉を手に入れて喜んでいる。
この世代間を恐れていない、分断されていない関係が、僕はこの映画でもっとも注目されるべきところだと思う。老人と若者、職人と客が(少なくともこの映画上では)互いを恐れずに、尊重しながら暮らしていた。客と店員、若者と老人…互いの立場の差は、小さな摩擦をたくさん生んでしまう。
互いを別物と認識してほしくないと思う。


ちなみに。ほかの場面ではフランスパンを裸で持っている人がいたが、肉...をさすがに手で持って帰る人はいないものの、簡単に紙で包んで手で持って帰っている。しかも店主は生肉を切った手を洗わずに紙で適当に包み、そのまま渡す。なかなか日本人的にはワイルドに見えるが、人々は当然のようにそれを受け取っていた。
おそらく監督のヴァルダも、ここで一発驚かせてやろうなんて思ってもいなかったと思うが。監督さえ想定していなかったところで感動が生まれるのは、いい映画の印かもしれない。

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