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「自己愛②」ー”ビジョナリーキャンバス”で気になったことを深堀りします。

ビジョナリーキャンバスで得た学びを非定期でお届けする投稿第2弾です。

今回は、前回お話した「自己愛」についての続きです。
今日は自己愛の理解に繋がる、「自分自身の愛情表現を理解すること」についてお話したいと思います。

前回までは、自己愛についてピンとこないというところから深堀りし、「自己愛は極めて主観的な、自分の中にある愛情表現を理解したときに確認できるもの」という仮説を確認しました。
つまり、「人それぞれ全然愛情表現違うから、自己愛も人それぞれ全く違うし、それは誰かが教えてくれるもんじゃなくね?」というお話をしました。

さて、ここからの続きをお話する前に例え話をしますね。 


自分が自分に”無意識に”してしまうこと


ふとした瞬間、「あ、ここに行ってみたい」と思うことはありませんか?
そして、その想いがよぎった瞬間、「いやいや、今は時間もお金もないからまたの機会にしよう」と、自分の想いに蓋をしてしまうことはないでしょうか。

人は、こういうことを日常的に無意識に行っています。
同じことを、今度は意識的にあなたにとって大切な人に対して行動したとしたらどうでしょうか? これ、とてもおもしろいです。

【想定】

大切な人(友人でも恋人でも家族でもいいです)が、「ここに行ってみたいな」と、何度も伝えてきます。

それを聞いたあなたは、「お金と時間に余裕があったらね。またの機会だね」と答えます。それは、何度聞いても同じ。

どうですか? とてもひどいと思いませんか?笑 

「他人から言われたら辛いのに……」を感じることがスタート


僕が言われたら「辛いなぁ」と感じる言葉の中に、「まあ機会があればね」があります。
他人からそう言われるのが辛いなって思うのに、自分自身は自分に対してそれを言っている。
それは、なんとも悲しいなという気持ちを改めて自分の中にあるものとして理解し直す。
「今の言葉は自分の中にあるもう1人の人格に言っているとしたら?」と想定し、自分の言葉の受け手として主観的に受け取ってみる
自分の中にある自己愛のカタチを理解する第一歩がこのプロセスです。

人が愛する人に施し、そして他者に求める愛情表現は極めて主観的です。
雨の日も風の日も一緒にいることが愛情表現だという人もいれば、そっと1人なる時間を作ってくれることを愛情表現だという人もいます。
故に、自分が欲しい愛情表現を自分に向けて行うには、まず自分が他人にしてあげたいと思う「愛情表現」を理解するところからスタートします。
つまり、何が自己愛に当たるのかは、誰かに答えを求めるものではなく、内省の中で自分自身が掴むものとも言えます。

「他人軸が蔓延る社会」が自己愛を難しくさせる


現代社会で自己愛を掴むのが難しいのは、この「内省」というプロセスを挟まないと、自己愛が容易に外部から影響を受け、ズレてしまう可能性が高いからです。
何度も言いますが、他者が思う愛情表現は自分が思う愛情表現とは違います。「自分を撫でてあげる」ことが愛情表現だという人もいればそうじゃない人もたくさんいます。当たり前のことなんですが、自分を見つめ直さないとそれに気づけません。 

そう思うと、自己愛は内省を通して自分軸を見つめない限り作り出せません。
「誰かがそう言ったから」とか、「●●さんが言ったことだから」という他人軸からは自己愛のカタチは見つかりません。
だから他人の情報が蔓延る現代社会は自己愛を難しくさせてしまうのです。


ということで、今回は2回にわたって「自己愛」についてお話ししてみました。
この続きでお伝えしたいこともありますが、次回にするか、期間を空けて投稿するかは少し考えたいと思います。 

ということで次回の投稿もお楽しみに。

※私が投稿する情報は、数多くの"ビジョナリーキャンバス"のセッションを経て洞察を深めた仮説ベースの情報です。

記事の内容を全面的にうのみにせず、自身の実体験をもって「確か」だと確信したものを自分の人生に採用してみてください

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