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餞別、餞別、涙

京都へ行くまで、あと1日。


「突然ですが、家には帰りません」
 弘前駅で、僕が電話口の母にそう告げると、母はあきらめ交じりに、静かな怒声を上げた。分かっているのだ、一度決めた僕は止まらないことを。
「どこへ行くの」
 母の声は、震えていた。
 つられて僕も、喉に力が入った。
「京都」
 戸惑いをはらんだ間が、一瞬あった。
 しかし、母はうろたえたのを表に出すまいと、前のめりに声を発した。
「いつ帰るの」
「帰らないよ」

 僕は、「どう言ってもダメです」と心の中で繰り返した。ダメです、帰りません、と。このやりとりは、母との電話の前に、恩師とも繰り広げていた。


 内服薬だの、のび太君の家出にはまずラインナップされないような、生々しい僕の持ち物たち。勉強用の書籍、ノート、原稿用紙、ノートパソコンに衣類。
 家族が寝静まる中、僕は大荷物を持って家を出た。もちろん、家の合鍵もポストの中に返して。
 朝一番に教授に会ったのだったか、もう、覚えていない。世間の時間の流れなんて、気にしている暇もなかったのだ。
 教授に会うや否や、「帰らないつもりで家を出て来ました」と伝えた。僕のつたない事情説明を、教授は渋面で静かに聞いてくれた。
「一度は帰りなさい」
 話を聞き終えた教授は、そう言った。
「いやです。 あそこにいても、勉強は続けられません」
 しかし、私の意思も固かった。恩師は唸った。
「その、京都の人というのは男か女か」
「女です」
 嘘が口から飛び出てしまった。
 今回の家出騒ぎのなかで、謝罪は各方面にして回りたいと常々思っているが、特に恩師であるこの教授には、よっぽど土下座せねばなるまい。それどころか、末代まで呪われるのが筋だとさえ思う。
「女、女ねえ。 その人とはどういう関係であなた、その人のところに行こうとしてるの」
「仕事の……バイトの先輩だった人です。 辞めた後も、すごく親切に相談にのってもらって……」
 ああ、ごめんなさい教授。ホントは男だし、同じライバー事務所の同期です。でも、ライバー活動のことを、ケータイ未所持のあなたに説明できるほどの力がないせいで、こんなデタラメを言いました。

「なら、その人に賭けて、京都……行くしかないか」


 どういう奇跡か分からないが、急に教授が言った。そうして、「少ないけれど」と、旅の餞別をくれたのだった。

 そのあと、学長と休学面談のくだりになった。面談はあっさりしていて、5分ほどで終わったように思う。
 研究室へ戻り、呆けていたかご飯を食べていたか忘れたが、とにかく虚無のような時間を過ごしていた。そこに、奨学金関連でお世話になった事務員さんがやってきた。目元を拭いながら、「少ないですけど……」と、これまた餞別を握らせてくれたのだった。


 恩師の車で駅まで送ってもらい、冒頭の母との電話に至る。
「旅費はお母さんと話して、出してもらいなさい。 くれぐれも、ケンカ別れには、ならないように」
 とクギを刺されたのにも関わらず、ずいぶんケンカ腰になってしまった。

「帰らないの? 二度と?」
 母の声に、悲壮感がにじんだ。胸がチクリチクリと痛んだ。
 直接の原因は、母ではないのに。
 しかし、引き下がりたくもなかった。
「教授が、旅費はママに出してもらえって。 口座に振り込んで」
「そう、行くのね」
「うん」
「分かった。 体に気をつけてね」
 ママの声は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ありがとう、ママもね」
 僕もぐしゃぐしゃの声でそう言い、電話を切った。
 その日は結局、旅費の入金が最終の新幹線に間に合わず、弘前駅のホテルで終えた。

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