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犬派・猫派

90歳を越えた老人は、まるで笑っている様な貌の猫と写真におさまっていた。超俗の人と言われた「熊谷守一展」に出かけた。

大学に行くついでや打ち合わせの帰りに美術館に寄るのが楽しみである。ならば夏休みともなると、多いにいろいろな所に出かけて行くのが普通であろう。ところが、出不精を自認する僕は、夏休みになると自分から何処かに出かけようとはしなくなる。どうしても行かなければならない用事のついでぐらいがちょうどよいお出かけである。

そんな夏休みであったが、今年の夏はあえて足を運んだ展覧会が二つもあった。「伊庭靖子展 まなざしのあわい」東京都美術館と「熊谷守一 いのちを見つめて」静岡県立美術館である。

この二つの展覧会について、このnoteに書こうと思いつつ、小学生が夏休みの読書感想文を書き倦ねるがごとくに、書き出せないでいたのだが、この九月からサバティカルでオランダに行った知り合いのnoteを読んで考えがまとまった。と言うか書き始める手がかりをえた。

サバティカル中の彼女は、犬派・猫派について、他者との距離感の違いだと書いていて「犬派は、自他の区別が限りなく曖昧で、願わくば他者に溶け込み自分の輪郭を失わせたいと願っている者であり、それに対して猫派は、自他の区別が明確にあり、他者は時々現れる自己の附属物にすぎないと考えている者であるように思える。」*と続いている。

この考え方を借りていささか強引ではあるが、伊庭靖子は犬派、熊谷守一は猫派と言えるのではないかと考え始めたのである。

初期の伊庭作品は、白いクッションやシーツなどがモティーフで、背景に光がまわり空間に溶け込み輪郭を失っている。それに対して熊谷作品の特徴は赤鉛筆で書かれたしっかりとした輪郭線、均一な彩色により単純かされたそれは塗り絵を思わせる。空間を分節しない犬派、空間を分節していく猫派である。

絵画にはその作品の内部(書かれているもの)と外部(書かれていないもの)の二つの空間が存在する。多くの近代絵画が捉えようとするものは空間であると考える、それが2次元であるがゆえになおさら空間が問題になるのだと思うし、そのような絵画に僕自身は魅力を感じる。出不精がわざわざ出かけたのは、その空間を見たかったからである。さらに言うならば、絵画の中の空間だけでなく、その絵が持つ三次元としての物質が造る空間、展示会場の空気も重要である。

最近の伊庭作品には、アクリルボックスに陶器等の対象を入れこみ、そのアクリルへの写り込みとともに描かれるものがある。空間をアクリルボックスで分節することによってかえって空間の繋がりが表現できているのではないだろうか。いつも考えている事だが、世界はだらだらと繋がっている。だからこそ「あわい」をあえて意識する事によって繋がりを強められる。建築というものがそうであるように、世界から内部と外部を分節して、関係性を造ることで、内部と外部の繋がりがデザインできる。

犬派・猫派で書き始めた一見対照的な作風の伊庭靖子と熊谷守一ではあるが、好きな作家がもつ通底する空間感覚をあらためて確認したともいえる。y

*Leiden屋根裏物語 犬身(Kenshin)


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