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雨の日の羨望_木村彩子_8

 ――きっと彼女は、わたしをこの日常から引っ張り出して、これから始まる物語のヒロインにしてくれるに違いない。

 そんな期待もむなしく、この物語のヒロインはほかでもない桐原しぐれであったことを思い知らされるのはもっと後になってからだが、それは追々説明するとしよう。

 わたしはその日(しぐれがビニール傘を持って舞い戻ってきた翌日)も仕事で、しぐれも用事があるということなので、前日と同じく二人で一緒に家を出た。同じ方向の電車に乗り、しぐれはわたしより二つ手前の駅で降りた。

 職場に着いて自席でパソコンを立ち上げて出勤の処理を済ませ、メールチェックをしていると、上司からおつかいを頼まれたのですぐに外に出ることになった。急ぎで郵送してほしいものがあるとのことで、わたしはその郵送物と財布だけを持って職場のビルのエレベーターを降り、一番近くの郵便局へ向かった。
 朝のおつかいを済ませ、午前中の仕事を終え、簡単にコンビニ弁当で昼食を採り、そのあとも特にトラブルなく順調に仕事を終え、少しだけ残業して夜七時ごろには退社した。家までの道中でコンビニに寄ったので、帰宅したのはだいたい夜八時半ごろだったか。

 家に着いてドアを開けると、廊下の先のリビングに、ぼーっと(そう見えただけかもしれないが)立っているしぐれの後ろ姿が見えた。わたしはぎょっとして一瞬動きを止めたが、ああ、そういえば今日もいるんだっけ、と思い出した。仕事をしているうちにしぐれのことなんかすっかり忘れていたので、座敷童でも出たのかと思ったのだ。
「おかえり彩ちゃん」
「ただいま。もう帰ってたの」
「とっくに帰ってたよ。いま何時だと思ってるの」
 そう言ってしぐれは笑った。
 ああそうか、しぐれは仕事に行ったわけじゃなく、ただ用事があっただけだったっけ。
 そういえば、何をしてたんだろう。そもそも、仕事はどうしてるんだろう。お金は?家は?
 わたしはそこで初めて、しぐれの空白の時間どころか、現在の生活についての話をなんにも聞いていなかったことに気付いた。


#小説 #フィクション #雨 #バイオリン #雨の日の羨望

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