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雨の日の羨望_木村彩子_2

 駅ビルの四階にある大型雑貨店まではエスカレーターで向かった。途中の階にファッションのフロアがあって、既に秋服が並んでいた。わたしはいつも目的の商品とは関係のない他の商品に目移りして、うっかり買って満足してしまい、家についてから思い出して苦い思いをすることが多い。この日も秋服に気を取られてファッションフロアでエスカレーターを降りる寸前だったが、幸い普段の自分の愚かさを思い出し、四階まで無事たどり着くことができた。
 ここまで来られれば、もう大丈夫だ。普段からお世話になっている雑貨店で、事務用品の売り場も把握している。わたしはさっさと会計まで済ませ、喫茶店でコーヒーでも飲みながら何の映画を観るか決めようと、エスカレーターを降りて駅ビルの外に出た。

 あと二メートルほどで馴染みの喫茶店に着くというところで、突然後ろから思いきり腕を掴まれた。驚いて振り返ると、思いつめたような、緊張したような顔をした女性がわたしを見つめていた。くるぶし近くまである黒いワンピースに、赤い靴を履いていた。美人だ。パッチリ開かれた瞳に一瞬で吸い込まれそうになった。

「…あの、木村彩子さん、ですよね?」
 心なしか震えた声で女性が言った。
「え?」
 名前は合っている。わたしの名前は木村彩子だ。ただこの女性が誰かわからない。
 わたしは困惑した。うろたえているわたしを見て、女性は一度視線を落とした。
「あ…あの、私、桐原しぐれです…覚えてないかな、高校で一緒だった…」
 ――高校。頭の中で彼女の言葉を反芻する。十年以上前の記憶を必死で手繰り寄せ、当時密かに憧れていた一人の女子生徒を思い出す。

桐原しぐれ。何故すぐにわからなかったのだろう。彼女とわたしは、同じ高校の音楽科で共に弦楽器を専攻していた。
「え…しぐれ…?」
わたしは彼女の頭から足先にかけてサッと視線を動かした。先程は気付かなかったが、背中にはバイオリンらしき楽器を背負っている。
わたしが彼女の名前を口にすると、彼女はホッとしたように表情を和らげた。
「よかった。さっき駅ビルにいたときに見かけて、そうかなって思って。…ごめんね、びっくりさせたよね、つい懐かしくなって…」
 遠慮がちだが早口で喋る彼女に、わたしはまだ状況が飲み込めず、中途半端に口を開けながらうんうんとただ頷いていた。
 駅ビルで見かけたということは、ここまでの間ずっとついて来ていたのか。
 そう考えると少し気味悪くも感じたが、彼女は同級生だった当時から、人とは少し感覚がずれていたことを思い出し、そこについては深く考えないようにした。
「ねえ、少し時間ない?せっかく久しぶりに会えたから、お茶でもしながらゆっくりお話ししたいなって」
 嫌味のない笑顔。当時と比べればお互い随分年を取っているはずだが、わたしと同い年とは思えないほど、彼女は相変わらず美しかった。
「いいよ。丁度そこの喫茶店でコーヒーでも飲もうと思ってたところだから。」
 わたしも笑顔で答える。突然の再会に驚いたが、わたしも彼女との空白の時間について興味があった。
 彼女は、数年前に突然姿を消した、有名なバイオリニストだったからだ。

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