社会の全員がラクになる―「カーブカット効果」のこと
スタンフォード大学が出しているStanford Social Innovation Review(SSIR)という素晴らしい雑誌がありまして、今度その日本語版が出るそうです。
日本版では、コミュニティを大事にして運営するそうで、コミュニティづくりのトライアルセッション(参加無料)が2021年6月30日の夜にオンラインで開かれます。
そのセッションに、「読者の代理人」のひとりとして登壇させていただくことになりました。
https://www.academyhills.com/seminar/detail/20210630.html
お題は、「カーブカット効果」というものです。
SSIRの下記の記事がカーブカット効果について説明しており、伝説の論文と呼ばれているそうです。
https://ssir.org/articles/entry/the_curb_cut_effect
上記の論文、英語でしかもけっこう長いです。なので、ざっと目をとおした自分が、この耳慣れない「カーブカット効果」とは何か、をnoteとして投稿しようと思った次第です。
カーブカット効果とは
カーブカットとは、たとえば、車道より歩道が一段高くなっているとき、その段差の一部分をなめらかにして、段差を解消することです。(この記事の一番上の写真をご覧ください)
これは、車いすの人のみならず、大きな荷物を台車で運んでいる人や、松葉づえの人、高齢の人などにも良い影響を与えます。
「社会の全員がラクになる」ような変化です。
つまり、特定の問題で困っている人のための支援が、社会のより広い人々にとって良い効果をもたらすことを「カーブカット効果」と言うようなのです。
カーブカット効果を持つ打ち手の例として、道路の自転車専用レーンがあるそうです。事故が減ることで自転車ユーザーのみならず自動車の運転手もメリットを得ますし、歩道がにぎわうことでその道沿いの商店もメリットを得ます。
同様に、アメリカにおいて(様々な不利益を被っている)有色人種の人々が様々な機会を得られるようにする政策が、いかに多くの人々にとって利益をもたらすものか、が上記論文で切々と語られています。
「社会の全員が機会を得る」ような政策は、パイを奪い合うゲームではない。カーブカットは、誰も損をしないゲームなのだ、と。
上記論文では、社会で弱い立場に置かれた人(マイノリティ)への教育・就業機会の提供がいかに大きな効果を挙げたか(逆に、マイノリティを見捨てることが、回りまわって社会全体にいかに大きな損失をもたらすか)が説得力を持って語られます。
当事者、またはマイノリティとしての発信の限界
ひらたく言うと、「社会でもっとも脆弱な人々に対して、就業や移動といったファンダメンタルな機会を保障することが、社会全体にとって非常に大きなプラスになる」ということを表しているのが「カーブカット効果」という言葉だと私は解釈しております。
「マイノリティに対する、カーブカット効果を持つような支援策は、マジョリティにとってのメリットを減らすものではなく、むしろ増やすものだ」
というのは、非常に重要なポイントだと思います。
マイノリティばかり手厚い支援を受けてずるい!と思っているマジョリティがいるような社会情勢においては、ますます重要です。
私は、ボランティアや実務者として20年くらい広義のNPOに関わってきたのですが、その中で「マイノリティのためのマイノリティ支援」という枠組みに自分がとらわれすぎていたと反省しており、その反省を先日noteに書いたところです。
私は、自分自身が、親を早くに亡くした、相対的に貧しい家庭で育ったマイノリティであるという自覚があったので、貧困問題の当事者として社会に支援を訴えることの重要性については、あまり疑問を持たずに過ごしてきました。
いま考えると、当事者性に基づくだけの発信は、共感してくれる人の範囲が、その限界になってしまう傾向があるように感じています。
それが、当事者に対して共感できないマジョリティの人々からはどう見えていたのか、(マーケティングという分野に身を置きながら恥ずかしい限りなのですが)よくわかっていなかった・・・と反省をしています。
カーブカット効果についての上記論文を読んで、自分には「実はこの支援は、マジョリティにとっても良いことがあるマイノリティ支援なんですよ」という発信が欠けていたかもしれない、と思わされました。
正の外部性
カーブカット効果を、経済学者は「正の外部性」と呼ぶだろう、と上記の論文には記載されています。
(正の外部性は、正の外部効果、外部経済などとも呼ばれるようです。どちらかというと、「外部不経済」という正反対の用語を、環境問題の文脈で聞いたことがある、という方も多いのではないかと思います)
正の外部性を持つような行為は、発生するメリットのうち、ごく一部しか行為者が享受しないような性質を持ちます。
そのため、放っておくと過少供給になります。
行為者は、自分自身が得られるメリットと釣り合うくらいのコストしかその行為に費やさないので、(社会はもっとそのような行為を必要としているのにも関わらず)十分には供給されないわけです。
そのため、政府が補助金を出すなどしてその外部性を「内部化」することで、社会的に望ましいレベルの供給を実現しようとします。
ところが、政府が出す補助金には、(素人の自分から見てですが)おそらく課題があります。政策的なお金なので迅速には出せない、申請してもらったり審査したり報告をさせたりとコストがかかる等。
そこで登場するのが、寄付による内部化、という発想です。
(自己紹介が遅れたのですが、私は寄付について大学院で研究している学生であり、現役のファンドレイザーでもあります)
寄付による内部化
要は、
「困っている人にとって良いだけでなく、社会の全員にも良い」と思われる取り組みがあったら、それに市民や企業が迅速に反応して寄付をするという社会になれば、正の外部性の内部化が進み、社会的に望ましい量の「カーブカット」が行われるはずです。
具体的な寄付の呼びかけを考えてみました。
とか
といった呼びかけは、「カーブカット効果」についての説明を付け加えるべきなのでしょう。
などなど。
マイノリティであろうがマジョリティであろうが、人のもつ人権が重要であるのは当然です。
しかし、自分をマジョリティだと認識している側の人からすれば、ただでさえリソース不足の社会において、「マイノリティがかわいそうだから支援をしてくれ、と言われたってお金は出せないよ」というのが本音かもしれません。
だからこそ、カーブカット効果のある取り組みについては、それをしっかり説明することが重要なのでしょう。
(私は、誰もがマジョリティとしての側面と、マイノリティとしての側面を持っていると考えています。いまは段差をなくすカーブカットなど必要ないと思っている人も高齢になるにつれてそれを必要とするはずです。どんなに多くの資産がある人も、治せない病気を持った子どもが生まれれば生涯マイノリティとしての意識を持つことになるでしょう。すべての側面においてマジョリティである人などいないと思われるわけですが、それを全ての人が自覚しているわけでもない、というのが現実だと感じます)
寄付募集の現場における困難と、可能性
さて、ここまでは理屈の話でした。現実の寄付募集では、そんなにうまく進むわけではないと感じます。
寄付者が、正の外部性によるメリットを享受できるのはいつでしょう?
寄付者が受け取る正の外部性によるメリットは、寄付額を上回るでしょうか?
こんなことを考えると、正の外部性を考慮してもなお、寄付という行為は、人によって経済的には損な行為だと思います。(そもそも得ならばみんながしますよね)
また、正の外部性の大きさを、誰がどうやって測るのでしょうか?
「この活動には、正の外部性がある」と主張する組織ばかりになったときに、寄付者はどうやって信頼できる寄付先を選べばよいのでしょう。
そもそも寄付者は、(いくつかの先行研究で示されているように)社会にとって効果的な活動をしている寄付先よりも、親しみを感じたり好きになった寄付先のほうに寄付をする性質があります。
だとしたら、寄付を募る側はどんな手を打てば良いのでしょう。
カーブカット効果を寄付募集に取り込もうとすると、課題は山積みであることがすぐにわかります。
しかし、だからこそ、この課題には重要性があると考えています。
カーブカット効果は、フィランソロピーが社会において生み出す真の好影響を想像するチャンスをくれる言葉であり、分断されてしまっているマイノリティとマジョリティをつなぐキーワードになるのでは、と予感しているところです。
6月30日は他にも魅力的な「読者の代理人」の方々が登壇されます。よければぜひご参加ください。(なんだか、すごい人数の方々が既に申し込んでくださっているようで、非常にたのしみです)