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創作の原点

少年の頃からいつも湧き上がる不思議な衝動がある。
作る事の喜び。
この衝動の根源は、何だろうと過去を振り返る。
それは、3歳位の時の思い出にさかのぼる。
微かに残るその衝動は、鮮明に心に刻まれている。
幼い頃の思い出は、ほとんどが記憶から消えている。
でも、なぜかこの事だけは、ショートフィルムのように鮮明に動画として心に刻まれている。
整然と緑の広がる畑。
その野菜が何かまでは、覚えていない。
しかし、自分の家の前の畑であることは、鮮明に覚えている。
その、畑で近所の少年が飛ばすゴム動力で飛ぶ飛行機を見せられた。
その動画に音は、無い。
ふわっと、浮かぶその飛行機は、まっすぐに緑菜の上を飛んでいく。
はるか手の届かない先までずっと飛んでいく。
その光景が僕の心に焼き付いて消えない。

これが僕の原点だ。
その強烈な思い出は、その後の僕の人生を大きく変えて行った。
そのゴム動力で飛ぶ模型をひたすら求め、自分で作りたいと心に刻まれた。
そして、その事から僕は、物作りに目ざめたのだった。
僕の物作りは、無から生み出す事にあった。
プラモデルなどの様にキットになっている物では、無く素材から切り出し作り出して完成させる事の喜びである。
様々な物つくりに専念していた。
その中にラジオ作りがある。
中学生の頃、回路図を見ながら真空管式のラジオを組み立てていた。
誰かに教わった訳では、無い。
すべて独学だった。
アルミの板を切りドリルで穴を開けリーマで穴を広げパーツを組み込む。
当時パーツは、秋葉原の駅前で売られていた。
まさに「オタク」の原点である。
中学2年の少年が回路図を元にパーツを集めラジオを組み立てていた。
完成したラジオから音が出た時の感動が僕を虜にしていた。
しかし、そこに大きな落とし穴があった。
物つくりは、孤独なのである。
ほぼ、一人遊びなのだった。
他人との触れ合いが苦手だった僕。
人との接触が不得意な僕は、学校へ行かなかった。
今なら不登校と言うカテゴリーに分類されるのだろう。
でも当時は、学校へ来ない子供を単なる「ずる休み」と言う枠に当てはめていたのだった。
そう、単に僕は、学校へ行かない不良生徒だったのだ。
担任は、そんな僕を高校進学をさせることは、無かった。
その後、重篤な病や大怪我を経て成人となった。

そんな僕が、成人をして仕事をしていた時だった。
客から修理依頼を受けたFAXを回路図片手に修理した。
その姿を見た店主が僕の才能に気が付いたのである。
学歴も無い僕が回路図を見ながら修理をして直したのだ。
そこから、僕の人生は、少しずつ変わって行った。
やがてパソコンブームが訪れBASICでプログラムを組む事が流行していった。
マイクロソフト社のコンピュータ言語が一世を風靡した時代だった。
僕もその世界に飲み込まれ、いつしかパソコンの営業マンになっていた。
最盛期は、国土交通省の出先機関にシステム提案をするようになっていた。
この時がたぶん人生のMAXだろう。

だれかから何か教わった訳では、無い。
所詮、学歴も無い素人だ。
やがてパソコンブームも終焉を迎え営業では、収益が上げられなくなっていた。
何も武器の無い僕は、やがて終わりを迎える。
仕事を離脱するとまともな仕事は、見つからなかった。
家族を失い心を病みパニック障害を抱え職を転々と変えていた。

そんな僕は、生きる気力を失っていた。
ある日、僕の心の中に、ふと浮かぶショートストーリー。
創作が芽生えた瞬間だった。
物語りを作る喜び、何もない「無」の中から物語りが生まれる瞬間。
かつてBASICでプログラムを組んでい居た頃に似ている。
自分の論理を組み立て実行する。
論理が破綻していなければプログラムは、動いてくれる。
そう、3歳の時に感動した、あのゴム動力の飛行機のように再び僕の心を感動させてくれる。
こうして僕は、何も無い中から何かを作りあげる事によって生きている。

コロナ禍でアルバイトすら見つからない今は、とりあえずひっそりと生きていこう。
そう思うこの頃だ・・・