理論まとめ(改訂版)

【理論の大まかな要素として、最小単位の理論、上位互換、少し意味の違う補完(←ここまでが根本的なもの)、表面的な設定、がある】
※余計なことがいくつか書かれていますが、無駄なことは書かないつもりで書いています。
※真偽が確かでないことも書かれています。
※すでに書いたことは消したくないので、過去に書いた間違った情報もあります。
※追記は『理論まとめ』の方の追記欄にも書きます。
※最小単位の理論の最新版は『最小単位の理論 | Atomic theory』書いてあります。度々、追記だけでなく編集をしてるので、『理論まとめ(改訂版)』より最新のものと思っていてください。


最小単位の理論

 最小単位の理論とは、精神の世界で起きる事を説明する形而上学や倫理学の理論である。
 この理論では、補完という概念が重要な役割を果たす。補完は、形而上的に一番重要な概念である。定義は、全ての感覚(心)が補完された状態、である。プラトンのイデアに似ているが、正確には補完の場合は内容ではなく質が完全で欠けていないということである。補完は、全ての対象がある感覚に適用されるだけでなく、対象が無い状態としても適用される。
 補完があることで以下のような効能が生まれる。
 一つ目は、コスモスの感覚である。この感覚を持つことで常に調和を感じることができる。これにより、心の中心は(悪や辛さの反対の意味である)良い心ではなく補完になる。また、コスモスの感覚とは別にある、補完があるだけで満足してしまうという感覚(この感覚が主体と思われがちだが)は無くすことができる。
 二つ目は、辛さの様なもの(分類としては辛さだけではない)の重さの感覚が増す効果がある。つまり、辛さの様なものを強く感じ取ることができる。ここで重要なのが、辛さの様なもの自体が増すわけではないということである。
 三つ目は、辛さはルールを守っている範囲ならいいものになる。ここでいうルールとは、補完を破ってしまう完全でなく欠けた存在である、理不尽な辛さというものが無いということである。これは、何らかの対象に対しての理不尽感とは全く別である。また、このルールがあっても辛さが避けたい存在であることに変わりはない。
 以上の効能は、社会的コスモスにおいて重要であり、根本的なものが良ければ表面的なものは大抵は悪くてもいいという思想とも繋がると考える。
 しかし、上記の通り補完を破ってしまう完全でなく欠けた存在が無くなる事によって生じる問題がある。それは辛さと普通の感覚が混ざった感覚というものが使えなくなってしまうということである。辛さと普通の感覚は、単体だと補完の邪魔をしない。そのため普通の感覚と辛さが分離してしまう問題が生じる。
 その問題を解決するためには、アカシジア(以下、造語であり本来の意味とは異なる)という感傷や辛さに近い概念が必要になる。アカシジアは補完の邪魔をしないで、辛さと普通の感覚が混ざった感覚の代わりになる。これは、アカシジアの深さを追う?形というものになっていることで補完が守られた状態で成立するというのが今の見解である。また、これは普通の状態と同時に存在でき、自然で違和感の無いものである。
 以上が最小単位の理論であるが、この理論の概形のパターンは一つしかない。代替となる理論は存在しない。この理論の概形は今後一切変わることはないと考える。これを否定するのは、例えば意識の代わりとなる他の何かがあると言っているようなものである。今のAI等が意識の無い存在である様に補完の無い存在もあり得るが、補完があることは理想なのであって、それを否定するのは人間に意識が無い方が良いと主張しているようなものである。

感覚の分類について(備考)
・普通の感覚は分類としては辛さとは違うが、煩わしさや重さみたいなものも含む。
・補完があったとしても普通の感覚の中の煩わしさに分類される生きている意味を求める的なものを逆に利用することでニヒリズム的な感じにもできる。
・普通の感覚は体験する全てのクオリアに含まれると思われる。アカシジアや辛さは含まれないこともあると思われる。
・普通の感覚の中には得という感覚が含まれていることもあるが、全てに含まれているとは限らない。
・分類としては、アカシジア自体に快感を感じることはないが、普通の感覚の傾向によってアカシジアを好む(快感を感じる)ということがある。
・"辛さや苦しさみたいなものとは違うが損?になるような感覚"というのは、分類でいうと普通の感覚に属する。
・おそらく普通の感覚をアカシジアの深さに溶かすということができると思われる。
・普通の感覚がアカシジアに溶けているかいないかで、平常心が保てているかどうかが決まると思われる。
・アカシジアは外的な対象だけではなく、状態自体に生じることもある。
・アカシジアは状況に関わらず内に秘めているものでもあると思われる。
・内に秘めているアカシジアによってケインズの言うアニマルスピリッツが生まれると思われる。
・これがある故にマイナスの感覚でしかないアカシジア等の分類が特別視できると思われる。
・内に秘めているアカシジアによって、普通の感覚は無くならないが、外的な対象のある全てのクオリアにアカシジアの影響を与えると思われる。
・アカシジアによって平面ではない(凹凸のある?)全てのクオリアを出せる。
・アカシジアがあることによって普通の感覚と辛さの分離が自然になると思われる。
・辛さという分類は、純粋な辛さではなく内容があると思われる。←これは違う可能性もある。
・普通の感覚やアカシジアは常にあることはあるかもしれないが、辛さは普通の状態では常にあると思われる。
・周りの感覚(つまりコーティング)によって、感覚の分類(普通の感覚、アカシジア、辛さ)の差違感は無くせると思われる。←特にアカシジアの性質を補完を守ったまま変えられる本質的なものといえると思われる。←コーティングによって、普通のアカシジアと、アカシジアらしさを消したもの、を使い分けられると思われる。

後退している形について(備考)
・後退している形というのはクオリアは無いのだが、なにしろ後退しているので相対的に見ると自然じゃないかもしれない。相対的に見なければ自然かもしれない。←少し意味の違う補完があれば相対的に見ても自然になるかも。←少し意味の違う補完は他のものを自然にするためにあるのに、その存在自体が自然じゃないかもしれない。←もしかしたら補完のあるだけで満足という感覚を無くせるというのに、後退している形以外のやり方が存在するかもしれない。
・補完があるだけで満足という感覚を無くすカバーには、後退している形や潜っている?形があるが、もしかしたら何も無くてもできる可能性あり。断片的にしか考えられていないので証明はしていないが、正しければ究極的に自然にできるし理論上欠陥は全て解決できる。

上位互換と少し意味の違う補完

上位互換について

【追記】上位互換はストイックな生き方を提唱したもので、ストイックな生き方をしているときにどの様なクオリアが出るかを考えている。正直に言うと、上に書いたどの様なクオリアが出るかについてはまだ分かっておらず、上位互換の欄も分からないまま適当に書いている状態。外的な知見があまり無いので色々な可能性を考慮して考えているのだが、もしかしたら上位互換は全く意味が無い可能性もあるかもしれない。

・補完を邪魔しない、かつ社会に適合させるために必要なものとして、上位互換というものが最も良いと判断しました。
・上位互換になる事が重要。←ヒントとして実現したい要素を挙げると、平等、陰要素に対応する、社会性、悪い所の是正(多様性等)、批判的精神、芸術性を理解する、等々がある。多分
・上位互換というのは、本当にあるかは分からないが科学的に最善だと思われる状態というのが元になっている。僕自身は脳科学的に理解していないが、感覚的には何となくどういうものか理解している。
・上位互換は、行き着いた状態という面では悟りと似ているのかもしれない。←辛さや苦しみとは違うが自分の状態が下がっている形になっていると思う。←個人的には下がっている形だけでなく、それにアカシジアが付いていると思うのだが、どうなのだろうか?←上位互換はストイックに近い生き方かもしれない。←ストイックとは、様々な欲求に左右されず、自分を厳しく律すること、を指す。
・上位互換と能力自体は別である。
・上位互換になっても個性が失われるわけではないと思われる。
・上位互換の人の方が質の分析を、より広くできるものだろうか?
・上位互換であるのとないのでは、興味の対象が変わる?
・芸術性に評価の軸がいくのは上位互換の直接的な影響ではなく、後天的によるものかも。
・上位互換の所は人や時代によって変わるかもしれないので固定できるものではないのかも。←上位互換があるのと無いのは分離した形ではなく段階的な形にできるかも。


上位互換(備考)
・上位互換の陰要素に対応するについて、陰要素に対応するというのは合っているが負の感情にもなれる。←メンタルが強くなるというのは違う。辛さの度合いは変わらない。←堕落させない役割も。
・上位互換の一つの役割として、自分の得のために社会的に良くならない行動をするのを抑える、というのがあると思われる。
・上位互換や補完による最終的に?受け入れられるという事が倫理的役割で重要。←納得できるが辛さ等の度合いは変わらない。
・上位互換の特徴として、志向的クオリアを多く出すというのがあると思われる。←人によるか?
・上位互換には厳しさに頼らないで社会に適合させる役割があるかも。←上位互換があるだけで甘くならない?(不明)
・上位互換のアカシジアは、悟りのようなものが中心でその過程でアカシジアが生じる。アカシジアがメインではないそういうアカシジアの形。
・後に書く科学的なことと例えの欄に、プラトンの魂の三分説を持ち出したのは、上位互換は禁欲というよりも我慢に近いからという理由があるだろう。
・上位互換に常にアカシジアが付くのは、欲を上位互換によって我慢しているからという説は正しいだろうか?
・上位互換は常に下がっている形になっているので常に幸せという一つの指標で得を決められるとそもそも成り立たなくなってしまうのでは?
・上位互換の度合いというのは、クオリアの軽さの度合いなのだろうか?
・上位互換は全てのクオリアを覆うようにしている形と、自ら選択してストイックに生きる、ということが両立しているのかも。

上位互換(最近の見解)
・正しいかは分からないが、個人的に最も気に入っている上位互換の形を以下に記す。←この理論は言葉で説明するのが難しく簡潔に書くので分かりづらいかもしれない。
・この理論は簡単に言うと、辛さや苦しさみたいなものとは違うが損?になるような感覚が対象や状態に常に付く。そしてクオリアを侵食していきクオリア自体の得という感覚が無くなっていく(クオリアの内容は消えない)。さらに侵食されるほど常にアカシジアが出る?←侵食度合いが上位互換の度合い。
・上位互換に常にアカシジアが付くのは、欲を上位互換によって我慢しているからだと思われる。
・前頭葉の影響下にあるところが侵食されている所。←価値観によって賢く(ストイックに)生きる。←欲はあってもいい(欲が変わることよりも価値観が変わることの方が重要)。
・個人的には、内的なものが変わるという事によって世界の中の外的な何かは必ずしも変わらなくていいと思っているのだが、上位互換は科学的には前頭葉の発達によるものなので、実現すれば将来的には感情的な人が減って冷静?な人が増えるかもしれない。←今後の世界において時代によって文化が大きく変わり続けるということは無理ではないか?
・この理論なら、クオリアが軽くなることもないし、クオリアがオリジナルの形ではなくなることもないし、上位互換の効能として上位互換自体以外の理由で損をすることもない。

・以下は一番最初に考えていた上位互換の形について記す。
・まず一番最初に考えていた上位互換は、最小単位の理論を守っていない状態であった原型となる理論が存在し、以前はそれを最小単位の理論を守った状態での理論に変換する方法が全然分かっていなかった。
・原型の理論は、クオリアを無を基調とした視点から持つことでおそらく補完を逆に利用して生み出したアカシジアを常に持ち、また報酬として補完を逆に利用したアカシジアが無くなり良いクオリアが出る瞬間がある、という仕組みであると思われる。
・今の見解では、補完を逆に利用した辛さ?の代わりに普通の感覚の煩わしさとアカシジア、報酬は普通の感覚の良い感覚とさらにアカシジアが無くなる、事によって原型の理論を最小単位の理論を守った状態での理論に変換することができると思われる。
・報酬はチクセントミハイのいうフローに与えられるのかもしれない。
・また原型の理論には、クオリアの形が変わる(オリジナルじゃなくなる)の様な性質がある気がしたのだが、それは必要なのだろうか?まだ最小単位の理論を守った状態に変換する方法は完全には分かっていない。←これはおそらく上位互換である人が真面目?になるために必要なのではないか?甘くも悪くもならないという。←最初に考えていた上位互換は、クオリアがオリジナルの形じゃなくなる、というのが無くても成り立つことはできると思われる。
・このように、形は変わるかもしれないが最小単位の理論を守った上でも最初に考えていた理論を実行することはできるかもしれない。

少し意味の違う補完について

【追記】少し意味の違う補完があった方がいいと考えていたのは、以前まで表面的な設定をなめていたからで、今の見解では少し意味の違う補完が有っても無くても社交性の面で変わらない気がするので、今は少し意味の違う補完は必要無いという見解が強め。補完のカバーをさらに自然にするものとしても後退している形以外には使う意味が無く、後退している形も正当性が疑わしいので、その面でも必要無いと思う。

・少し意味の違う補完という名前の由来は、情報が入った補完の様なものという意味があったことによる。
・少し意味の違う補完は何かを自然にする役割がある。内的には、位置関係を無くせる。その何かに繋がって周り全体にあると浮かせられる感じ?で。外的には、社交的?な状態を基礎にする。
・少し意味の違う補完の社交的になるというのは、優しさなどは入っていないため性格とは別なのでどんな性格にも合う。←社交的でない個性が生まれるのは表面的な設定によるもの。

上位互換と少し意味の違う補完の関係性

・根本的なものには社会性と社交性の特性が必要。上位互換は前者で、少し意味の違う補完は後者。
・上位互換も少し意味の違う補完も性格(表面的な設定)とは別なのでどんな性格にも合う。←悪い人も社会的にできるか?(不明)
・上位互換と少し意味の違う補完は常にあるもので、晴れるものじゃない。普段は無意識の中にあって意識を向けたときだけ役割とクオリアをメタ認知できるようになっているのが一番良い感じだろうか?
・上位互換は比較的合理的だが、少し意味の違う補完によって文化的なものにも対応する。
・上位互換と少し意味の違う補完が別々に分かれていることによって、上位互換の判断が求められるところではそれを優先することができる。混同していると優先することはできなくなると思われる。


科学的なことと例え
・根本的なものの中で、上位互換と少し意味の違う補完は表面的には脳科学的に解明する意味があると思われる。科学的に考えると上位互換は主に前頭葉によるものかもしれない。すると、上位互換は理性と価値観の二つに分けることができる。理性だけでは価値観がないと機能しないからだ。また、少し意味の違う補完は前頭葉より低次元な部位による欲望の一つかもしれない。そして前出の、理性、価値観、欲望は、科学的に考えたときのモデルとしてプラトンの「魂の三分説」が適しているかもしれない。「魂の三分説」を簡単に説明すると、対立している気概(価値観)と欲望を、理性によってバランス良くコントロールするというものである。この考え方は脳科学的にみて正しいのだろうか?
・上位互換の判断を優先させるというのの仕組みは、魂の三分説でいう気概に反するものは意志決定に含まない、という感じか。←あまり現実的ではなさそう。←仕組みは分からないが、優先させる度合いみたいなものがあるのかもしれない。
・将来的に人間の前頭葉が発達して、感情的な人が減って冷静?な人が増えてもいいのだろうか?
・上位互換を理性と価値観に分けたときの価値観は、積極的に社会に有益になることをするというものではなく、社会性に従うというものの科学的仕組みを考えた方がいいかもしれない。
・科学的に仕組みを解けたとしても内的な感覚(クオリア)の形というのは別に考えないといけない。
・上位互換は、一つの要素だけではなく何個かの要素が重なってできているのでは?
・悪質な事をする人が存在するのは、普通の人の脳にも悪を定義してさらにそれに導く役割を持った部分が存在するからで、その部分が遺伝的に薄まっていけば悪質な事をする人が生まれる確率は低くなっていくはず←善の心を増す?よりも悪の心を無くす事が必要なのではと。←時代が進むにつれて悪い人がいなくなってくるという前提で書いているのだが、はたしてその前提は正しいのだろうか?また、それは実現可能なのだろうか?
・辛さにも色々な種類(クオリア)があるが、それを辛さの一種だと認識するということは、辛さというものを感じる脳の共通の部位の反応がないといけないのではないだろうか?

表面的な設定について

・表面的な設定というのは分かりやすく言うと例えば個性とか。そういうものだと思っていてください。
・表面的な設定は根本的なものと完全に分かれたものではなく、表面的な設定と根本的なものが絡み合っている部分もある。
・僕の理論を構築する上で表面的な設定も色々変えた方が良いのではと前は思っていたのだが、表面的な設定は今の世界のものと大して変わらないというのが今の見解。
・根本的なものと表面的な設定は変な位置関係は無く、無意識にある同位置と考えるのがいい。←他の感覚と一緒にあれば、理論の存在自体も自然になるのでは?

その他

損得問題について
・内的な損得は絶対的?で損でも得でもない0の状態が存在する。さらに損か得かどっちかではなく、得をしながら損をしている状態も存在する。←0の状態があるのも事実だし、相対的な損得があるのも事実なのかもしれない。←補完を0の状態として捉えると0の状態と損得が同時に存在できる。損も得もしていない状態を0と捉えると0の状態と損得は同時に存在できない。←相対的な損得を存在可能にするためにも、損も得もしていない状態よりも補完を常にある状態にした方が良いことが分かった。←実際は、相対的な損得と絶対的?な損得は両方使われているのではないだろうか?←そうすると複雑になってしまうけど大丈夫なのだろうか?
・得にも色々なパラメーターがある中で、幸せという一つの指標で得を決めるという一般的な評価の仕方は無くなった方がよいのだろうか?
・修行をすると苦しみや欲が無くなるという仕組みがよく分からない。そもそも苦しみや欲も科学的には意志の方向性を決めるものにすぎないのでは?
・わりとこれは形而上的にいえる事だと思うのだが、欲があるからこそ良いクオリアが出ている事が得に見えるのであって、欲が無かったら良いクオリアが出ていたとしてもそれが得をしているとはあまりいえない。←損は得とは違って、欲とは関係なく度合いがあるといえる気がする。←得の平等はあまり重要じゃ無いと思うのだが、損の平等に関しては重要だと思う。
・欲を満たせなかったというのは分類としては損なのだろうか?
・ブータンはかつては幸福度で世界トップだったが、国民が他国と比較するようになってから幸福度が落ちたらしい。ブータンだけでなく昔の人も比較するものが無かったために幸福度が下がる事が無かったと思われる。これは本質的に幸せだったといえる。
・科学的にも形而上的にも根本的には悪というのが必ずしも心地よくないクオリアではないのだが、良い心が有るから悪が心地よくない感覚になるのではないだろうか?
・働いたりして苦労しているほど休憩が快感に感じるのかも。
・人々が愛のクオリアを求めるように、"良いクオリアを出す"が設定されていたら、それを求められる人の方が得かもしれない。
・周りの感覚(常にあって得になる)というものが、人間が進化すると段々無くなってくるかも。
・現代になると豊かになった故に不安が大きくなるのかもしれない。
・特に人間関係の不安は人間がいる限り存在し続けるのではないだろうか。
・上位互換が無い状態と比べると、上位互換があることで常時若干損をしている事になるかも。
・昔の人は鈍感であることが在り方としては良いのかな。
・未来の世界では、良い感覚だけでなく辛さ等負の感覚自体に価値が生まれているかもしれない。←特にクリーンな負の感覚は価値が高い。
・未来にいくほどニヒリズムに陥りやすくなるのかも。
・生物学的な進化的に人間が発展した社会に完全に適応できないので、未来の世界において損が大きくなるということがあるかも。
・未来の世界が過去よりも堕落してたら嫌だな。
・人工知能のシンギュラリティが過ぎると、社会自体もある意味変わらなくなるのか。

感覚的クオリアと志向的クオリアについて
・感覚的クオリアは、今ここで対象の何かを体験している時に生まれるクオリアを指す。志向的クオリアは、感覚的クオリアの条件とは違い、想像することで感じるクオリアの事を指す。
・感覚的クオリアは進化の過程で厳選されて誰もが同じように持っているクオリアであり、志向的クオリアは志向性を内包し解釈や意味付けが行われる。志向的クオリアは人によって違う。
・映画の映像とBGMの様に、感覚的クオリアと感覚的クオリアが混ざり合って、統合した形にクオリアは変化する。
・今ここの自分の状態というのも感覚的クオリアだろうか?
・志向的クオリアは意味の理解と連想で二つに分かれているのではないか?
・多くの人が歌詞の付いた曲をよく聴くのは、意味を求める本能のようなものがあるからだろうか?
・感覚的クオリアにも深さがあったが、それは無い方がいい気がする。深さは志向的クオリアだけでいい。深さがあると特別な感じになってしまうから。補完にも影響はない気がする←感覚的クオリアに深さがあると志向的クオリアがおかしくなってしまう。多分。
・アカシジアが、感覚的クオリアに生じることもあれば、志向的クオリアに生じることもあると考えられる。

枠のクオリアについて
・感覚的クオリアの中に枠のクオリアというのがある。←刺激的なものに慣れていると一見つまらないという様な枠のクオリアが一番重要で、それにはアカシジアも付くと思われる。

"良いクオリアを出す"について
・"良いクオリアを出す"とは、対象のクオリアを良い質のものにする形而上的なもの。対象の陰も陽も関係なく付く。クオリアの質が良くなる理由が"良いクオリアを出す"であることが重要。他のやり方だと変な理由が付いてしまう("良いクオリアを出す"は、面白さを付け足す等他のものを付け足すのではなく、そのままのクオリアを良くするという形だから)。
・クオリアの条件と"良いクオリアを出す"の条件は別にある。
・経験による自分の変化や知見によって対象の感覚に"良いクオリアを出す"を付加する。←このやり方があらゆるクオリアに対して平等にやることが可能だろうか?←芸術性に気づいた時に"良いクオリアを出す"が出るのかな。←これは結構究めてないと出来ないのかな?
・芸術性にも"良いクオリアを出す"は付かなくてもいいのではないかと今は思っている部分がある。どうなのだろうか?
・例えば作品を鑑賞したときにその作品自体だけに"良いクオリアを出す"が付くのではなく、もっと細かい単位でも付く。
・リアルタイムの感覚には付かなくても、その思い出に"良いクオリアを出す"を付けることも可能なのではないか?
・参考として、感動の役割↓
①ヤル気やポジティブ思考、自立性・自主性を奮い起すきっかけとなる。
②思考転換・視野拡大・興味拡大などによる新しい考え方・価値観獲得のきっかけとなる。
③他者からの愛や慈悲をきっかけに人間愛や寛容、利他意識に目覚める。
が挙げられる。

形而上的な事について
・ここでいう形而上的というのは"究極的な"という様な意味であり、本来の意味とは少し違うかもしれません。
・形而上的には、良い方向だけの感覚が良いという設定があるとはいえない。
・形而上的なものというのは概念的には存在するけど、形而上的な世界というのは存在しない。制約があれば良い世界は作れるか?
・辛さがあること自体は形而上的に問題は無いのだが、辛さを味わわない事が可能でかつそれに問題が無い場合辛さを避けることは形而上的なものだろうか?
・音楽を聴く時の、クオリアを体験する脳の機能と、分析する脳の機能は別物だと読んだことがある。分析する機能と体験する機能というのは、科学的だけではなく形而上的に違って別にあるという事が分かっている。欲も似た感じなのでは?体験している状態ではないが対象が有って(分析の機能と同じ)、それを体験することを求める。←欲は引っ掛かっているものである。幸せも同じ。
・人に辛さや良い感覚を与える側は、この項の上に書いてある分析する機能の方で対応する感覚を感じているのであって、そのままの形で体験しているというわけではないのでは。←分析する機能の方は、損にも得にもならないと思われる。
・神がいるとすれば全知全能ではないと思う。永遠の昔からいたわけでもないと思う。←この世界が生まれたのはエントロピーの逆行?によるものだと聞いたことがある。

その他
・一番良いクオリアを目指しても一つには決まらない。クオリアではなくクライテリアを基礎にして見るというのが唯一一つに決まる状態。
・補完が守られていることでクオリアの質は良くなる。
・クオリアがクライテリアによって良くなったり悪くなったりするという仕組みは正しいか?つまり評価によって理由が付いてクオリアが良くなったり悪くなったりする。
・頭の中の方はメタ認知しにくくなっていた方がいいのだろうか?
・思い出のクオリアはそれで(一回で)満足できるものであってはならない。それと求められなくなる?のは両立する。
・特に大人は辛さ的なものを持った状態にあるのではないか。例えば染みるという感覚もそこからくる。
・大人になるほどアカシジアの方向に向かう。
・大人になると安全基地のクオリアが無くなる。
・大人は、常にアカシジアが出ているとは限らないが常に大人であるという(普通の感覚に分類される)クオリアが出ているのが普通だろうか?
・作品等よりも生きているような事を優先する。←作品の方がクオリアが良くても生きているようなことを優先できる。←一過性のものとしている?
・作品を鑑賞した時に、普通に鑑賞できた場合必ず得という感覚が含まれる。

最後に
・最小単位の理論は、全体としてのパターンは一つしかなく絶対に正しいが、一つ一つの小さい理論に代替となる理論が存在するかもしれない。最小単位の理論以外は正当性が分からないと理論に入れた方が良いかは分からない。
・最小単位の理論と上位互換は分かる人には分かるかもしれないが、少し意味の違う補完は聞いただけでその感覚を理解するのがかなり難しい印象。
・いくつか問題点になるかもしれない所を挙げてみた↓
①辛さと普通の感覚が混ざった感覚にしかできないことがある?
②科学的にはアカシジアと辛さは、信号機の黄色信号(前者)と赤信号(後者)の様なものであり、辛さと普通の感覚が混ざった感覚の代わりにアカシジアを使うのはナンセンス?
③上位互換はどのような形がいいのかがまだ分からない。
④少し意味の違う補完が有っても無くても社交性の面で変わらない気がするので、少し意味の違う補完は理論に含まなくてもいい?


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