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SF短編 『ペルソナ・ノン・グラータ』

 灼熱の夏だった。
 僕はある都市の、比較的名前の知られた美大の学生だった。
 ただし大学には、ほとんど行ってなかった。
 早晩、僕の足元に暗い穴を開けるだろう破局の予感はあった。
 中学からの知り合いで、同じ大学の産業デザイン科に通う斉藤は、一旦、休学したほうが良いと忠告してくれた。
 それでも僕は、指一本動かせなかった。
 僕は子供の頃から絵を描くのが好きだった。上手いという自負もあった。
 高校に入った直後、僕は美大を目指すと両親に宣言した。一般の教科は塾で頑張り、デッサンや油絵は個人レッスンで腕を磨いた。
 あの頃は本当に頑張っていた。
 努力の甲斐あって、浪人することなく大学に入り、僕は気づいた。
 ………飽きた。
 僕は完全に飽きていた。
 鉛筆や絵の具、キャンバス、練り消しといった一切に飽きていた。白い紙を見ると、めまいがした。絵の具を溶かすオイルの匂いで吐き気をもよおした。
 燃え尽き症候群だと斉藤は言った。
 名前をつけたからと言って、僕の症状は良くならない。灰が、自分が燃えカスだと知った後も、灰であり続けるように。 
 僕は日々を1DKのアパートの部屋に寝転がって過ごした。
 隣県の実家には自分の状況を報せなかった。
 でも分かっていた。大学からは毎年、成績表が実家に送られる。来年の春になれば、家族は僕の挫折を知ることになる。
 死刑執行までの猶予期間だ。それにしても暇で仕方がない。何かバイトでもあったら紹介してくれよ。できれば絵なんかに関係しない仕事が良いな。
 僕は斉藤に、そう道化けてみせた。
 彼は呆れて頭をふった。
 しかし斉藤は律儀な奴だった。
 数日後、斉藤が電話で伝えてきたのは、メタバース関連のゼノンという会社のアルバイトだった。学科の先輩が説明まで受けたが、実家にゴタゴタがあり、急遽、交代要員を探しているとのことだった。
「どうせ萌っぽいアバターを量産しろ、みたいな仕事だろう? 嫌いなんだよ、あの手の絵は」
 僕はスマートフォンごしに言った。
「早合点するなよ」
 斉藤はゆったりした口調で言った。昔から気の長い男なのだ。
「お前は知らないかもしれないけど、人間がアバターを作るなんて時代はもう終わってるんだよ。そんなのは一時期流行った生成AIがバックエンドで作ってる」
 悔しいが斉藤の言う通り、僕はネットやゲームなどに疎かった。僕の時間のほとんどは、美大に合格するために費やされてきたのだ。
「じゃあ、何をするんだ?」
「アバターの心と言うか、個性を作るらしい」
「だってアバターを動かしている人間がいるだろう? 彼らには、きっちり心があるじゃないか?」
 斉藤は溜息をついた。
「お前さ、すべてのアバターを人間が動かしてる、とか思ってないか?」
「違うのか?」
「10%に満たないらしいよ。人間のアバターなんて。それ以外はボットだ。AIが適当な反応をしているに過ぎない」
「知らなかったな」
 僕は言った。
「ああ。そこまでの比率とはな」
 斉藤は言った。「メタバースのプロトコルが標準化されて、各社で乗り入れができるようになった結果らしい。仮想世界を訪れる人間の取り合いになってるってことだな。デフレだよ。結果、ゲームとかにあったNPCノンプレーヤーキャラクターが投入されることになった。そいつらの心みたいなものを作るんだよ」
「無理だな。美大生にプログラムなんて」
 僕は唇を尖らせた。
「誰もお前にコーディングなんて頼まないよ」
 斉藤は笑った。「入力のインタフェースはすでにある。それを使ってお前の飛び切り人間っぽい反応パターンを突っ込むんだ」
「僕が人間っぽい?」
「苦労して入った大学にも行かず寝てるとか、人間じゃなきゃあやらないだろう?」
 斉藤は皮肉を言った。「詳しい説明はゼノンで聞いてくれ。美大生であるお前に求められているのは、とことん人間くさい所だ」

     *

「我々は、それをペルソナと呼んでいる」
 ディスプレイの中、プロジェクト責任者である紺野さんは言った。
 川崎駅のバスターミナル近くのビルだった。僕はそこに責任者がいると思っていたが、違った。
 紺野さんは、上半身を起こしたベットの上にいた。眼鏡型のVRゴーグルをかけている。背後の壁際には生体モニターが見えた。
「紺野は閉じ込め症候群と呼ばれる状態にあります」
 一階のロビーで僕を迎えた宮原さんという社員は言った。「二年前、脳卒中で倒れたんです。現在も治療中ですが、眼球を動かすことと瞬きしかできません」
「でもプロジェクトを運営されているんですよね?」
 僕は聞いた。
「ええ。知的機能を司る部位は影響を受けていませんので。私たちは紺野と協力して、意思疎通を可能にするシステムを組み上げました」
「すごい」
 僕は言った。
 あまりに単純な反応だったのだろう、宮原さんは微笑んだ。頬にえくぼが浮かんだ。
「コミュニケーションのベースは眼球運動とまばたきを組み合わせた独自言語です。自然言語はノイズが多すぎて非効率なんです。その独自言語をAIで自然言語にマッピングしました。そこまで来れば、文字起こしや音声化は簡単でした。何か質問はありますか?」
 まったく別世界の話だった。自分が時代遅れの遺物になった気がした。
「ありません」
 僕は答え、エレベーターでこの会議室に案内されてきたのだ。
「ペルソナという言葉には幾つもの意味がある。我々のは、一時期マーケティングで使われたペルソナ法の概念を進めたものと考えてもらえば良いかな」
 紺野さんの独自言語を翻訳して音声化した声が続けた。落ち着いた大人らしい声だ。
「加賀さん、だったね?」
「はい、加賀です」
 僕は高い声で言った。宮原さんが僕を力づけるようにうなずいた。
「ペルソナとは、言わば外的な反応から推測された仮想人格なんだ。我々のシステムは、色々な物事に対する加賀さんの反応を学習し、仮想的な人格であるペルソナを構成する」
「それをアバターに入れるんですか?」
「システム構成的には別だが、まあ、ざっくりそう言っても良いかな」
 紺野さんは答えた。文字であれば、行末に『笑』のマークがついたかもしれない。
「ギャラが良い代わりに、ペルソナ抽出は負担の大きな作業になる。他のアルバイトの方々も、若干、参っているとは聞いている」
 紺野さんは言った。
「若干じゃなく、かなりですね」
 宮原さんが訂正した。
 紺野さんは小さく笑った。
「正直に話そう。抽出に使われる設問は3万件を超える。正確な数を言えないのは、日々AIが新たなパラメタを設定し、設問が更新・追加されるからだ。加賀さんを全方位から精神分析するようなものだな。もちろんプライバシーは完璧に守る。加賀さん個人の情報は一切残らない。さて、何か質問は?」
「………期間的には、どれくらいかかりますか?」
 どうせ時間はいくらでもある。でも何も質問をしないのも憚られた。宮原さんという若い女性に対する見栄もあった。
「前例的にはどうかな? 宮原さん」
 紺野さんが言った。
 宮原さんは首をかしげた。
「比較的コンスタントに時間が取れる方で、半年といったところでしょうか」
 この夏の予定は埋まった。

     *

 確かに大変な作業だった。
 僕は毎朝9時にゼノン社に入り17時まで働いた。昼食は、最上階の社員食堂を使わせてもらえた。どのメニューも比較的安くヘルシーで充実していた。
 作業室はフリーアドレスで、パソコンデスクが12席用意されていた。
 作業室で他のバイトと一緒になるのは珍しかった。宮原さんによれば、大抵の者は自宅から社内ネットワークに接続して作業をしているとのことだった。
 僕のアパートにも、入学時に購入したWindowsマシンはあった。でもほとんど使っていない。そんな僕に、会社のネットワークに接続するためのVPN設定や、指定された監視ソフトのインストールなどが容易にできるとは思えなかった。
 僕は毎朝電車通勤するほうを選んだ。それは僕自身の社会復帰とも言えた。
「どう、進んでる?」
 昼前に、宮原さんが作業室に来た。進捗管理者としてのルーティンだ。それでも、嬉しくないと言えば嘘になる。
 天気が崩れそうな日で、作業室には僕ひとりだった。
 僕は椅子の上で背を伸ばした。
「朝から2つ、CIA並みの尋問を受けてようやく解放されたところです。死ぬかと思いました」
「大げさね」
 宮原さんは笑った。ボーダーのTシャツにデニムパンツといった格好だった。
 ここに通うようになってひと月近くなっていた。宮原さんとの会話もずいぶんラフになっていた。同じプロジェクトを進める同僚並みには。
「実際、参りますね」
 僕は言った。「この写真について感じたことを言え、は良いんですよ。問題はその後で、お前はなぜそう思ったのか、5段階に遡って自己分析しろ、みたいなのは」
「ああ、あれね」
 宮原さんはうなずき、椅子に腰を下ろした。「私もやったわ。かなり前に」
「宮原さんもペルソナを抽出されたんですか?」
「事業を立ち上げた頃は人もお金も不足していたから。ほとんどの社員がペルソナを提供しているはずよ」
 ゼノン社は開発したペルソナを世界中のメタバースサービスに提供している。その数はかなりのものらしい。
「宮原さんのペルソナが、どこかで動いてる?」
「そうね」
 宮原さんは答えた。「量産するために、整合性を保てる範囲でパラメタを変えているし、他の人間やペルソナと交流した結果のフィードバックも受けているから、どれが私の、なんて一概に言えないけれど」
「でも、宮原さんのペルソナから分岐したってことは分かるんですか?」
「………プロパティに認識番号が格納されているから」
 宮原さんは僕を見た。「そんなに気になる? 私のペルソナが」
「いえ、そんな意味じゃないんですけど」
 僕はうろたえた。「………最終的には僕のペルソナも公開されるんだな、と思って。ある日、どこかのメタバースで、僕が僕自身と会話する、なんてことも」
「大いにアリね」
 宮原さんは笑った。「で、すごい嫌な奴だ、なんて思ったりして」
「それ、かなり傷つきますね」
 笑い返した時、窓の外が白く光った。少し遅れて雷鳴がガラスを震わせる。空を覆う雨雲から一気に押し寄せた大粒の雨が視界を奪った。
「まるでスコールね。夏になったばかりなのに」
 宮原さんがつぶやいた。
 国連の事務総長が、「地球沸騰の時代が到来した」と言ったのは何年前だっただろう? それでも各国の足並みが揃うことはなく、事態は改善されるどころか、悪くなる一方だ。ヨーロッパやアメリカ、アジア、アフリカで発生している山火事は広大な土地を焼き続け、鎮火の気配はない。数万人単位で死者が出ている。この国でだって、引き返せないレベルで生態系が変わりつつあるとニュースが言っていた。
「これじゃあ外には出られないわね。混みだす前に食堂に行く?」
 宮原さんが言った。
 僕に異論はなかった。

     *

 問題は8月、来週はお盆だという時期に発生した。
 朝から20件ほどのロールシャッハ・テストもどきに回答し、くたびれ果てた僕は休憩所でコーヒーを飲み、作業室に戻った。
 パソコンのロックを解除しようと、指紋センサーの上に人差し指を置いた。
 ディスプレイに表示されたのは、進入禁止のアイコンがついたダイアログだった。
『緊急対応中につき社内ネットワークを停止しています』
 と書かれていた。
 僕は隣の席に移りパソコンの電源を入れた。OS起動後に表示されたのは、同じダイアログだった。
 作業室に僕以外の人間はいない。学生は夏季休暇だし、早めの盆休みに入っている者もいるだろう。宮原さんに聞いてみるしかない。
 作業室を出て階段を上っていると、急ぎ気味の足音がおりてきた。宮原さんだった。
「ああ、加賀さん」
 宮原さんは声をあげた。「今、そっちに行こうとしていたの」
 僕らは踊り場で向かい合った。
「緊急対応中って出たんですが、何かあったんですか?」
 僕は聞いた。
「ええ、ちょっと問題が発生してね。今、部分的に社内ネットを停めているの」
「バイトの環境もですか? あまり関係ないように思うんですが」
「そうでもないの」
 宮原さんは首をふった。「ペルソナ抽出は、テストが完了したブロックから自動的にデプロイしているし」
「僕のペルソナに問題があるんですか?」
「加賀さんのペルソナに、じゃない」
 宮原さんは困った顔をした。「だけじゃない、が正しいわ。すべてのペルソナが問題なの。見て」
 彼女はスマートフォンの画面を僕に見せた。顔を寄せると、柑橘系のコロンの香りがした。
 ネットのニュースだった。『主要メタバースで、大規模な気候変動デモが発生中』と書かれている。
「このデモで、メタバース全域に負荷がかかっているの。一時的にサービス停止に踏み切った会社もある」
 僕は首をかしげた。
「分からないです。デモって、人間が動かしているアバターの話ですよね。ペルソナに関係あるんですか?」
 しょせんはプログラムの塊にすぎないペルソナが、いかにも人間臭いデモに関係しているという話が分からなかった。
「ログを追って分かったの。任意のペルソナと接触した人たちがデモに参加している比率が高い。まるで、………説得されたみたいに」
「そのペルソナ、って」
「うちが提供したペルソナよ」
 宮原さんは言った。

     *

 どちらにしろ、今日の作業がいつ再開できるか分からなかった。
 僕は熱帯並みの大気の中、自分のアパートに帰った。
 関東の気温は45度を超えていた。
 ペルソナの件は、あと数時間もすれば発表されるだろうと宮原さんは言っていたが、TVでは相変わらずのバラエティをやっているだけだった。
 僕はスマートフォンでニュースを探した。
 世界中のメタバースで、気候変動デモが行われていた。
 それは飛び火する形で貧困や人種差別反対、ジェンダー平等といったデモに発展していた。ヨーロッパの都市部では、物理的なデモになっていた。数万人規模の人々が道路を行進している動画もあった。デジタルとフィジカルが相互浸透している。
 昼になり、僕は冷蔵庫で乾きかけていたハムでサンドイッチを作って食べた。
 落ち着かなかった。
 僕が何かをしたわけではないが、世界的な運動の一端に、僕自身のペルソナが関係している可能性があると想像すると、腹の底がざわついた。
 皿を洗っているときにチャットアプリの通知があった。
 宮原さんからだった。
『駅まで来ています。手を貸して欲しいことがあります』
 と書かれていた。
 彼女には雑談で、どの駅から電車に乗るといった話をしていた。僕は緊張しながらアパートの場所をテキストで返した。
 20分ほどで宮原さんは来た。部屋にあがるなり、
「加賀さん、うちのネットワークに入るソフトはインストールしてないわよね?」
 と聞いた。
「ええ………」
 宮原さんはテーブルの上の、僕のノートブックを確認した。
「スペックは問題ないわ。使わせてくれる?」
「それは構いませんが、設定とか大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。仮想マシンを使う」
 彼女はデイバッグのポケットからUSBメモリを出した。パソコンに挿し、電源ボタンを操作する。Windowsの画面の上に、見たことのないOSの画面が表示された。
「Linuxベースで、最低限の機能に軽量化したディストリビューションよ」
 僕には理解不能だった。
「ゼノンのペルソナが関係してるって話は、どうなったんですか?」
 僕は忙しくキーボードを打つ宮原さんに聞いた。
「状況が動いているの」
 宮原さんは言った。「クライアントたちは発表を望んでいない。彼らはあくまでデモの被害者でいたいらしいわ」
「そういうことか………」
「でも、うちとしては調べないわけにはいかないの。なぜペルソナが特定の政治的立場を拡散して、人々を先導したか」
「政治的ですか?」
 思わず、僕は言った。「この馬鹿みたいな暑さが? 暑くなり続けるのをどうにかしなきゃあって言うことがですか?」
 宮原さんは僕を見あげ、薄桃色の唇を噛んだ。
「………そうね。暑さは政治的なんかじゃない。山火事だって、立場なんか関係なく襲ってきて、人が死んでいる」
「すみません」
 宮原さんは首をふった。
「今ね、紺野さんとコミュニケーションが取れない状態になっているの」
「良くないんですか?」
 僕は聞いた。この状況でCTO最高技術責任者と会話できないなんて。
「MRIやCTでは、大きな変化は見られない。でも彼は今朝から言葉を話さなくなっているの。それって、タイミングが合いすぎていると思う」
「何か知ってるというんですか?」
「分からない」
 宮原さんは言った。「だから会社の人が居ない環境で彼と話したかった。………これよ」
 彼女がキーを叩くと、画面に3D空間が現れた。僕ですら、それがふた昔くらい前のデザインであることが分かった。空間の奥行きは、黒い背景にオレンジのワイヤーで表現されているだけだ。
「紺野さんとのホットラインよ。データ量は最低限で、経路は暗号化している」
 僕はうなずいた。紺野さんと宮原さんの間に、同僚というだけではない何かがあるのを感じてもいた。
「来た」
 宮原さんがつぶやいた。
 3D空間の奥からグレイの人間が近づいてきた。頭の上に、Kの文字が浮かんでいる。

     *

「やっぱり来たな」
 スピーカーから聞こえたのは、紺野さんの声だった。
「………」
 宮原さんは息を吸い込んだ。タッチパッドの上で指が震えている。
「加賀さんのクリーンなマシンを借りています」
 宮原さんの声は硬かった。「会社の人間はいません。私と加賀さんだけです。………どういう積もりなんです?」
「相変わらず勘が良いな」
 紺野さんは言った。
「ふざけないでください!」
 宮原さんが叫んだ。
「ペルソナを操作したんですね。そうでなければ、あんな確率で恣意的な動作が広がるはずがありません」
「その通りだ」
 紺野さんは言った。「あのペルソナたちには、世界の正常化に最適な行動を取るように人間を促す指示、地球レベルの倫理的ミームと呼んでも良いか、それを仕込んでいる」
「………いつからです?」
 宮原さんが聞いた。
「頭蓋骨の中に閉じ込められた俺を、君がサルベージしてくれてからだ、礼子」
「名前で呼ばないでください」
 宮原さんは言った。
「悪かった。………これを見てくれ」
 画面に一枚の写真が表示された。ポニーテイルの少女だ。小学校低学年くらいだろう。公園でブランコを背にこちらに笑いかけている。手放しの笑みだ。
「妻の残した娘だ。何ものにも代えがたい」
 紺野さんは言った。「彼女は成長する。ティーンになり、大人の女性になり、誰かを愛し、望むなら結婚し、俺にとっての孫を産むかもしれない。俺は考えた。彼女が生きていく世界が、今の延長線上で良いのか? ってな。いや、駄目だ。今の国家や企業や低次元の欲望が惰性で動かし続ける世界の先など見えている」
「だから、………ペルソナを使ったんですか? 軌道修正のために」
 宮原さんが言った。
「マイクロエフェクトだ」
 紺野さんは答えた。「メタバース人口は増え続けている。その多くは若者だ。俺は会話の中で人間の行動を変革するミームを伝播するよう、ペルソナを調整した。効果的なタイミングで、若い人類をプッシュする。ミリ秒単位で膨大な計算が可能なチップがあってこそ可能な手法だ。その成果が、今日起きた。若者たちはメタバースを出て、外の世界でデモさえ始めた」
「それは洗脳じゃないんですか?」
 宮原さんは言った。
「君はそう言うだろうと思っていた。確かに現時点では、ペルソナたちは、ペルソナ・ノン・グラータ、好ましからざる異者かもしれない。ある種の人間は、完全な敵とみなすだろう。だがこの先、もっと人類が賢明になった時、ペルソナに導かれたことをありがたく思う。きっと」
「私には分かりません。影響が大きすぎます」
 宮原さんはテーブルに両肘をつき、頭を抱えた。
「………僕は」
 おずおずと、僕は声を出した。「技術的なことは分かりませんが」
「構わない。聞かせてくれ」
 紺野さんが言った。
「ごちゃまぜで良いんじゃないですか」
 宮原さんが、僕を見上げた。
「人間なんて、ずっとそうだったんじゃないですか? 純粋に独立した思考なんか、これまでだってなかった。親や友だちや社会、本、いや、樹や花や海や風からさえも何かのアイデアをもらって、それをミックスして考えを作ってきた。今、もう一種類、ペルソナってのが増えたくらい、何でもないんじゃないですか?」
「それが恣意的にコントロールされたものでも?」
 宮原さんが聞いた。
「経緯はそうでしょう」
 僕は言った。社会人の大人たちに、僕らしくない意見をしていた。
「でも人間なんてそんなに簡単に言うことを聞くもんじゃないですよ。特に僕を含めた若い奴らは。そりゃあ根元の情報は入力されているかもしれないけれど、僕たちは個々で判断します。甘く見ないで欲しい」
「………そうかもな」
 紺野さんが言った。「俺は調子に乗っていたのかもしれない。俺のシステムが彼らを動かしたんだと」
 僕はうなずいた。
「それに、ペルソナから伝えられたアイデアは、個人の中で消化され、次に伝えられるんですよね。どこまでがオリジナルなのかも分からない。今日起きていることの責任なんて誰にも取れないんじゃないですか?」
 後の言葉は宮原さんに向けたものだった。
 宮原さんは小さくうなずいた。
「皆、行動しはじめた。トリガーが何だったにしろ、すべてをノン・グラータとして排除することなんて、もうできないわ」
「どっちにしろ、僕たちはもっと賢くならなけりゃあならないんです。選り好みしている場合じゃない」
 僕は言った。
 長い沈黙があった。紺野さんと宮原さん、僕も、各々の中に沈みこんでいた。やがて、
「ふたりとも、ありがとう。俺はもう行くよ」
 紺野さんが言った。
 宮原さんは息を吐き、ディスプレイを見つめた。
「会社には謝っておいてくれ。ケジメはケジメだ。俺はゼノンを辞める。もう外には出ない」
「勝手な人です、あなたは」
 宮原さんは言った。
「そうだな。でも俺は頑張るよ、この脳が物理的に駄目になるまで。世界を少しでも良い状態で次の世代に渡せるように。幸い、俺には無限に近い眼も耳もある。加賀さん、それは約束する」
「分かりました。覚えておきます」
 僕は答えた。
 そして紺野さんのイメージは去っていた。

     *

 夕暮れが近づいていた。
 僕は駅まで宮原さんを送った。
「これから会社に戻って報告するわ」
 前から駆けてくる小学生たちを避けながら、宮原さんは言った。「でも、加賀さんが言ったように、誰も何もできないでしょう。人間の頭の中からペルソナの影響を消すなんてできるはずがない」
「そうですね」
「今の作業をどうするかも、決まったら連絡するわ。でも………」
 宮原さんは言った。「ありがとう。少し落ち着いた」
「良かったです」
 僕は下手な答えを返した。宮原さんは笑い、
「ねえ、今度、加賀君の描いた絵を見せて」
 と言った。初めての君付けだ。それが昇格なのか降格なのかは分からなかった。
「絵ですか?」
 僕はうろたえた。
「だって美大生なんでしょ。部屋は殺風景だったけれど。………楽しみにしてる」
 彼女は手を振り、駅の改札を抜けていった。
 僕は宮原さんの白い夏服を見送り、アパートに向かって歩きはじめた。
 商店街の賑わいに包まれる。
 でも耳を澄ますと、この世界が深いところで動きだしている音が聞こえる気がした。皆、動きはじめている。
 何かが目にとまり、僕は立ち止まった。
 小さな画材店だった。暗くなりはじめた店内に、真っ白なキャンバスが並んでいる。
 ………彼女に見せたいからか?
 それで良いじゃないか。描かれるべき絵が、僕を待っているのを感じるんだ。久しぶりに。
 僕は店の中に入っていった。


本作、『第11回 星新一賞』の最終審査までは残ったものの、受賞に至りませんでした。ということで、noteで無料公開しちゃいます(おっ、太っ腹!)。良い勉強になりました。

参加賞的にいただいた図書カード

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