バックヤード:仏製サメ映画『セーヌ川の水面の下に』を観る
プロット勉強のために、ほとんどジャンルの絞りなく映画を観ていたりする。ダラダラネチョネチョした生理的に無理な映画(日本製の比率が高いのが悲しい)は5分程度で停止する。
昨日、Netflixの『セーヌ川の水面の下に』を観た。
「ヒャッハー系の人々がサメに食われる仏製映画ね。すぐ停めそうだな」と再生したが、何とか最後まで観た。で、その展開に驚いた。甲斐バンドは、「映画を観るならフランス映画さ」とか歌っていたが、さすがというか何というか、色々裏切られるフランス映画だった。
以下、ネタバレを含みます。
過去、変異した巨大サメに恋人を食われた(海洋環境系?)科学者ソフィア
トラウマを抱えたまま、パリで暮らしている
環境活動家のミカがソフィアを訪ね、(なぜかわざわざ長旅してきた)変異サメがセーヌ川に入り込んでいるので、海に逃がすのを手伝ってくれと依頼するが、最終的に断る
セーヌ川で変異サメの事件が多発する
ソフィアは水上警察に依頼され、変異サメ事件の解決に協力する。ミカの組織が邪魔をする
ミカはサメを逃がそうとし、支援者と共に繁殖したサメたちに食われる
パリ市長は、水上警察やソフィアの提言を受け入れず、トライアスロン大会を強行する
裏でサメの駆逐作戦を行っていた水上警察やソフィアは失敗し、サメがトライアスロン選手たちを食いまくる
サメ騒ぎで、セーヌ河の川底にやたら散らばっていた(たぶん第二次世界大戦当時の)不発弾が大量爆発する
爆発によりパリは水浸しになり、その中をサメがウヨウヨ泳いでいる。かろうじて助かったソフィアと水上警察の男。男が、「もうお終いだ」と言う
俺がびっくりしたのは、こういう設定から予想できる「色々あったし、愚かな人たちは食われたけど、最後にはサメを退治し、主人公はトラウマを解消できて良かったね」という展開にならなかったことだ。この映画では何も解決していない。オープンと言えば聞こえは良いが、ほとんど肛門が開きっぱなし(失礼)で物語世界は終わって=中断している。
じゃあ、なぜ予定調和的な展開にならなかったのか? と、俺なりに考えてみた。
かつての『ジョーズ』であれば、
人喰いサメ出た
警告を聞かない愚かな人々、食われた
頑張って退治した。ばんざーい
で、「海苦手(だったよね)」な署長も、少しは海に馴染んだ感じでチャポチャポ、牧歌的に去っていく。すっきり展開で、心地よい。
だが、この『セーヌ川の水面の下に』は、時代が違う。出だしの設定自体が、そう牧歌的ではない。話の始まった時点で、「悪いのは人間」なのだ。海を汚し、海洋生物絶滅の危機を招き、サメを変異させたのは、皆、人間。サメの凶暴化は末端の現象でしかなく、災厄の原因は、人間以外の何者でもない。
という「人間の倫理的負債」を前提にはじまった映画が、「サメを退治して万歳!」という結末にたどり着けるわけはない。少なくとも、知的に真摯であれば、そういう展開を描けるはずはない。ハリウッド映画なら描くかもしれないが。
で、この映画は珍しく「ある程度、知的に真摯であろうとした」んだろう、環境保護動画でヒャッハーしている人々も、水上警官たちも、市長や取り巻きも、皆、等しく死んでいく。群生化した変異サメによってだけではなく、最終的にはほったらかしにしていた不発弾の連鎖的爆発でパリの街は壊滅的な水浸しになる。人物たちのトラウマなんて小さな問題は置き去りにされて終わる。
俺が気になったのは、「セーヌ川には、本当に大量の不発弾が沈んでいるんだっけ?」であり、「この不発弾って、何かのメタファなのか?」だが、まあ、この手のB級映画で(失礼)メタファとか言い出すとキリがないので、そこは置いておこう。
分かったのは、「人間の倫理的負債」を前提にした人喰いサメ映画は、真面目に作るとドツボにハマるってことかなあ。これって、他のプロットでも言えるかもねえ。登場人物に解決できない倫理的な縛りを設定すると、開きっぱなしの肛門的展開になる、と。
あとはもうSFにして、「親切な宇宙人が仲介してくれる」とか「サメとコミュニケーションできる超能力者少女がどーとか」みたいな「外部」や「倫理的負債を無化する無垢」のような要素を持ってくるしかないんじゃないのかなあ。ジャンルが変わっちゃうな。
続編を作って欲しいとは思わないけど。
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