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ロックと友だちが人生を救う(自己を見つめる連載⑥)

[冒頭画像は寮の庭で寮母さん舎監さんを囲む中3同級生卒寮時か]
【2020年9月27日配信】
 前回、中学で寮の先輩から受けた性被害と、それを「なかったこと」にして中1中2の記憶をすべて欠落させてしまった自分を振り返りました。そんな僕がどうして中3から記憶を蘇らせたのかを記したいと思います。ロックと友だちが人生を救ったのです。
(本記事は、9月26日に配信した「それを“なかったこと”にしたから…」に続く、連載6回目です)

《ロックバンドへのお誘い》

 中学3年生。寮で最上級生になりました。もう自分をいじめる先輩はいません。2学期に入り、そろそろ中学も終わりだなあと意識し始めた頃、同じ寮の同級生Nが話しかけてきました。
「相澤、ピアノを弾けるんだって?」
「うん、そうだよ」と即答すると、
「あのさあ、ちょっと弾いてもらいたいんだけど」
「うん、いいよ」と、またも即答。
 するとNはややためらいながら続けました。
「いや、弾くと言っても、バッハとかじゃないんだけどさ…」
 まず、僕にバッハを弾きこなすほどの力量はありません。それにロック好きで知られるNが僕にクラシックを弾いてほしいと言ってくるはずがありません。そのくらいはわかりました。彼はロックバンドをやろうとしていて、僕にキーボードを担当してほしかったのです。それにも僕は即答しました。「うん、いいよ

《友だちがほしかった》

 Nとは同じ寮とは言ってもそれほど親しかったわけではありません。そもそも僕は同じ寮に友だちと言えるほどの仲間を持っていませんでした。もともとアスペな子は人間関係が苦手ですが、たぶんあの事件以降、心の中で壁を作り、回りのみんなを自分から避けていたのかもしれません。そして僕はロックのこともあまり知りませんでした。
 それなのに、なぜ僕はNの誘いに即答したのでしょうか? それは…きっと友だちがほしかったんだと思います。あの年頃では友だちが自分にとっての世界のすべてになります。僕には友だちがいなかった。中1中2時代に友だちがいなかったから、記憶が空白なんだと思います。
 それでも、人付き合いの苦手なアスペの子でも、やっぱり友だちがほしかった。そこにNが話しかけてきてくれた。僕に「頼みごと」をしてくれた。それがとにかくうれしくて、よく知らないロックだろうが何だろうが受けたんだろうと、今にして思います。

《これが友だちなんだな》

 Nがバンドでやろうとしていたのは、寮のクリスマス会での演奏でした。僕らがいたカトリック教会寮では毎年クリスマスの時期に寮生手作りのパーティを開いていました。中3になって、これが最後のクリスマス会になるから、そこで何かしよう、という時に、このアイディアが生まれたようです。
 寮生からバンドメンバーを集めるにあたって、みんなが一番知っているであろうビートルズをコピーすることになりました。それを「ロックバンド」と呼べるのかは異論もあるでしょうが、当時中学生の僕らにとってはロックでした。
 どの曲を演奏したのか、もうよく覚えていませんが、「カム・トゥゲザー」をやったことは間違いありません。なかなか渋い選曲だったのではないかと思います。
 クリスマスに向けて僕らは練習を繰り返しました。Nはギター、僕はキーボードとピアノ、他にドラムスとベースがいました。4人で繰り返し、教会の一角に置いてあったピアノの周辺で練習を繰り返しました。すると自然に仲間意識が芽生えてきます。練習以外でも行動を共にするようになります。
 すると、バンドメンバーを通して他の寮生とも話をする機会が増えてきます。話してみると、なんだ、いい奴じゃん、という感じがしてきます。こうして寮内で独りぼっちだった僕は、いつの間にかみんなと寮の仲間として日々の生活を楽しめるようになりました。
 ある夜、寮の庭の芝生の上にみんなで寝っ転がって夜空を眺めていました。よく晴れて、透き通るような星空。何だかそこへ落っこちていきそうな錯覚にとらわれました。そんな話をみんなとしているうちに、しみじみ感じました。「これが友だちなんだな

《友だちができた~という歌詞にじわっと》

 話はちょっと変わります。私がNHKで記者としてデビューした1987年(昭和62年)、あるロックバンドがメジャーデビューします。ザ・ブルーハーツ。デビューアルバムは全曲名曲ぞろいですが、私は中でも「パンク・ロック」という曲がお気に入りでした。ボーカルの甲本ヒロトは歌います。
友達ができた 話し合える奴 何から話そう 僕の好きなもの」…何を話すのかと言えば、「僕、パンク・ロックが好きだ 中途半端な気持ちじゃなくて」
 この曲を聴くたび、私は中学生の頃の僕を思い出して、ちょっとじわっときます。僕はほんとに友達がいなかった。周囲になじめず、先輩にいじめられ、孤立していた。でも、Nに誘われてロックバンドに入った。やっと友だちができた。好きなものを語り合えるようになった。
 ザ・ブルーハーツは“はみだし者”という言葉をよく使います。でも中3までの僕は自ら“はみだした”というより“はじかれ者”でした。周囲からはじかれ孤立した僕の寄る辺ない魂を救ってくれたのがロックだったのです。そして、そこに誘ってくれたN。その後も彼は僕の人生に多大なる痕跡を残しました。

《ビートルズからストーンズへ》

 クリスマス会が盛況のうちに終わると、バンドは自然解消します。するとNは私にまたも誘いかけてきました。
「あのさあ、ビートルズよりもさあ、ストーンズの方がずーっとかっこいいんだぜ!」
 ローリング・ストーンズのコピーバンドをやろうというお誘いです。その頃、ストーンズはラブ・ユー・ライブという2枚組みライブアルバムを出したばかりでした。

 2枚組みという言い方がすでに昭和の香りで、同世代の方に説明は不要でしょうが、昔のLPレコード1枚におさまりきらない量の曲を2枚組みにして出したアルバムです。もう、すり切れるほど聴きました(この「すり切れるほど」という表現もレコード時代の遺物となりました)。今も曲順をすべて覚えています。
 A面冒頭のイントロが庶民のファンファーレ。続いて代表曲ホンキー・トンク・ウィメンイフ・ユー・キャント・ロック・ミーからゲット・オフ・オブ・マイ・クラウドへの見事なメドレー。キースが歌う軽快なハッピー
 キリがないのでこれくらいにしますが、何と言ってもカッコイイのはC面、カナダのエル・モカンボ・クラブというライブハウスで収録された、すべてカバーの4曲。ミックのMCと客席の反応がたまりません。ストーンズが狭いライブハウスで演ってくれただなんて、いい時代があったんだなあ。
 すっかりストーンズファンになってしまった僕は、もちろん新バンド結成に賛成します。でも課題が一つありました。ミック・ジャガー(ボーカル)、キース・リチャードロン・ウッド(ギター)、チャーリー・ワッツ(ドラムス)はそろったのですが、ビル・ワイマン(ベース)がいないのです。結局、僕が引き受けることになりました。こうしてにわかベーシストが誕生。高校でロック人生が本格化していきます。

《“卒寮”前の楽しく鮮やかな記憶》

 中高一貫のラ・サールでは高校受験がないので、中学3年生も受験勉強の必要がなく緩みきっています。エスカレーター式に黙っていても高校生になれます。そして高校生になると中学生だけのカト寮を出て、学園内の高校生用の寮に移ることになります。
 “卒寮”を目前にした僕らはある催しを計画しました。それは、勉強机が並ぶ「自習室」ですき焼きパーティをしようというたくらみです。一応、建前上は寮則で「自習室は飲食禁止」なのですが、寮では最上級生が「俺がルールだ」状態ですから、中学3年生が「やる」と言えば事実上誰も止められません。そういう「自主自立」の寮運営でした。
 お金を出し合って、みんなで買い出しに。肉屋さんで肉の量「これで足りるかな?」と言いながら大量に買い込みました。野菜や豆腐なども買い込んで、最後は酒屋に。生意気にビールを呑もうという魂胆です。
 「俺たち、大人に見えるかな?」などと言い合いながら。中坊が大人に見えるわけないんですが、そこは子ども、そういうことがわからない。でも昔はそういうことにあまりうるさく言わない大人がかなりいて、酒屋さんは黙って缶ビールを大量に売ってくれました。
 自習室で机を寄せてコンロを置き、ガスは壁のガスストーブのホースを外して引いてきました。自分らで調理、というか、切り刻んだ食材をただ鍋に放り込んで味付けし、煮立てただけです。それをたまごにつけて食べながらビールを飲む。生まれて初めてのビールだったと思います。
 ただそれだけのことが、どれだけ愉快だったことか。友だちとみんなで買い出しし、料理し、ちょっと大人の気分でビールを飲む。そういう時間をみんなと共有したことが何より楽しい思い出となって記憶に残っています。

《終わりよければすべてよし》

 中1中2時代の記憶がすっぽり空白になっている僕ですが、中3時のこのパーティの記憶は本当に色鮮やかです。これと似た経験を、私は最近ある方から教わりました。
 私が今最大の取材テーマとしている、財務省近畿財務局の森友公文書改ざん問題。改ざんで夫を亡くした赤木雅子さんが、この春のある日、こんなLINEを送ってくれたのです。
「住民票が必要なので区役所に行ってきました。2年前の3月30日、まだ岡山(の実家)にいる頃、区役所に手続きに行き、区役所横にある公園の桜が満開でしたが、不思議なことに桜が白黒に見えたんですよ! 何回見直しても。花見をしている小さい子供もみんな白黒で。そうとう弱ってました
 今日は同じ桜見てきましたが、雨空だけどちゃんと桜色に見えました。プレッシャーは大きいけど援護射撃もあって強くなりました」
 「ああ、似ているなあ」と私は感じました。桜が白黒に見えた赤木さんは、多くの方の助けを得て桜が色鮮やかに蘇りました。中学前半の記憶がない私は、友だちができた15歳になって突然記憶が蘇りました。おかげで僕は中学時代、寮生活の最後を、楽しかった鮮やかな思い出として記憶に残すことができました。
 終わりよければすべてよし。前向きな気持ちで高校に進むことができました。これは私の人生の上で決定的に重要だったと感じます。すべては友だちができたおかげ。その元はロックが作ってくれたのです。

 しかし考えてみると、僕とロックを最初につないだきっかけはピアノです。小学生の頃あれほど嫌だった、母に習わされたピアノが、結局は私の人生を救う元になっただなんて、ほんと人生は何がどうなるか最後までわかりませんね。
 ロック、友情、酒、アスペ、うつ。私の人生を形作っているものが徐々に出そろってきました。あと足りないのは「取材」です。それは高校に入ると登場します。そして生涯の友となる、ユーチューブ配信「メディア酔談」仲間でメディアコンサルタントの境治も、ここから私の人生に現れます。
 自己を見つめる連載、ヤマ場は次回も続きます。できるだけ早く配信したいと思います。

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