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125ccで日本一周記#3 岩手県宮古市~本州最北端

おそらく空虚について、こんなくだらないことを書くくらい、あきらかに虚しいことはあるまい。     

モンテーニュ『エセー』三巻9章『空虚について』より

前回。


11月2日 @岩手県宮古市



爆睡した。久しぶりのマトモなベッドだ。とにかく爆睡した。
やはりベッドは素晴らしい。快活クラブが宿泊用に作られていないのは百も承知なのだが、それにしてもビジホは素晴らしい。金があったらいくらでもビジホに泊まりたい。
しかし私は大学生であり、概して大学生は金欠だ。金がない。金がないので、ビジホに泊まれるのは2回までという縛りを設けている。なので泊まれない。

ルートインの朝食ビュッフェを元を取るために食らい尽くし、そのままベッドで気絶し、ホテルを出たのはチェックアウトスレスレの10時だった。

10:00 出発

とにかく、ホテルを出発する。この日は天気もよく、快適な旅になりそうだった。浄土ヶ浜、という海辺があるらしいので、とりあえずそこに寄ってみることにする。
宮古はコンパクトな街で走りやすく、気持ちがいい。たくさん寝たし、コンディションは抜群。今日は良い一日になりs

「突然のお電話失礼いたします。芙蓉さんでお間違い無いですか?その、客室に財布と靴下、あとAirPodsの忘れ物がありまして……」

10:30 戻る


11:00 再出発

碌なことが起きない。昔っから私はちょっと異常なくらい物忘れが激しい。
ADHDなのかな?と思い診断してみたところ、医者からお墨付きの「物忘れが激しいだけの健常者」という称号をもらった。世間公認のギリ健である。
「すごい量忘れていきましたねw」みたいなフロントのお姉さんの目が痛い。なんかもういなくなりたかった。
帰りたい。

11:30 浄土ヶ浜(久慈市)到着

もうあまりにも帰りたかった。あまりにも帰りたかったが、「浄土ヶ浜」という名前に興味を惹かれたので仕方なく行った。

うん、海だ。どうやら僧侶がここを「まるで極楽浄土のよう」と言ったことが由来となっているようだが、「そこまでか……?」とは、少々思った。
海水浴のシーズンではないからか、ここ来ている人たちの年齢層はかなり高めで、若者は私しかいなかった。近いうちに行く浄土の内見だろうか。

とにかく階段がキツかった。イカれた傾斜の階段しかなくて息切れで意識が飛びそうになった。死にそうになったところにこの海でちょっと感動した。だから浄土ヶ浜なのだろうか。


近くに「潮吹き穴」が見られる男子中学生垂涎のスポットがあるらしいが、めんどくさいので後にした。ちょっと気になったが、もうそれ以上に帰りたかった。

東北の観光ポスターやパンフレットはかなり頑張っているのだが、それ以上にWebサイトが平成で止まっている。
Webマーケティングのコンサルとか雇ったらどうなんだろう。でもそういうところ雇うと、意識高い大企業の採用ページみたいな無駄に凝っただけの超見にくいサイトが爆誕してしまう。そうなるくらいならこのままでいい。

デカい橋

11:50 出発

出発する。ホテルを出たのが遅すぎたのと青森から大間までクソ遠いため、今日中の大間岬到達は無理である。
今日の宿泊地は青森市に決めた。十和田を経由していこう。

今は紅葉シーズンである。東北の紅葉で有名なのは「奥入瀬渓流」であろう。東北随一の景勝地にして、数少ない南部の観光地である。津軽にはいっぱいあるんだけどね。
しばらく、もう面白みのないリアス式の海岸を進む。バタバタしてしまったせいで大変に腹が減った。

手つかずの原野が未だに残っている 北海道みを感じていた

しばらく走ると、久慈市に入った。とりあえずガソリンを入れて、昼食も取りたいところである。

恐らく津波ですべて消えてしまい、原野に戻ってしまったのであろう場所

13:30 道の駅いわて北三陸 到着

ガソスタがあったから寄ったのだが、どうやら道の駅併設のガソスタだったようだ。ついでなのでこの辺りで昼餉をいただくことにした。

やはり東北の海鮮は絶品である。関東でどんなに高い金を出して寿司や刺身を食おうが、東北のこの味に適うことはないだろう。
私が思うに、関東から南北に行けば行くほど魚はうまいのだが、どこか一定のラインで旨さが上限値になる。もちろん美味いのであるが、北海道や東北の海鮮はどこかのラインで頭打ちになってしまう気がする。私の味覚がまだまだだからか?

かっけ~~~~~この風防折れてるバイク誰のだよ おれです

さて、私は青森県のアンチである。
そもそも東北の鬱蒼とした空気が怖い。自然ではなく、人の空気だ。東北は都市単位で見れば未だに数世代前の地主上がりの上位層が幅を利かせているので、実力のある者は都会に行くし、雪が嫌いな人も都会に行くし、現地で媚を売って骨を埋めたくない人も都会に行くのだろう。なのでカースト制が残り、青森出身の私の友人のような「中流階層の転勤族」は、それこそ沖縄から本土に出てきた具志堅用高ばりの扱いを受けるのである。

久慈市を抜け、いよいよ奥羽山脈の中をかき分けていく。特に何も無い景色を、ひたすらに駆け抜けていく。

15:30 十和田市 到着

十和田湖の麓町、十和田市に到着した。しばらく休憩を挟む。

久しぶりの町らしい町にテンションが上った

思えば、仙台を越えてから日の傾きが大変に早い。14時にはもう日が傾き始め、15時にはもう夕暮れ時である。16時にもなるとずいぶん暗くなってくる。緯度、というものを実感する機会はそうそうないのだが、東北地方という南北に長い地形を旅していると、その存在をひしひしと実感することができる。
十和田は上北地域の中心都市であり、南部の領地である。南部と津軽の確執は様々なところでネタにされているが、ここは結構ガチである。
また登場してくる青森出身の私の友人談であるが、母親が南部出身、父親が津軽出身なため、青森市のねぶた祭りでは両親は離れ離れになって鑑賞するそうだ。南部のコミュニティと津軽のコミュニティがあるから、らしい。
ここ十和田のコンビニでも、弘前ナンバーの車はコンビニの一番端に気まずそうに停められていた。

16:20 奥入瀬渓流 到着

またしばらくバイクを走らせ、というか帰宅時だったので渋滞に巻き込まれつつ、奥入瀬渓流に到着した。

奥入瀬渓流はまた通ることになるのだが、このときはただ紅葉を、ゆっくりと流れるこの地での時間を少しだけ堪能していた。
しかし、奥入瀬渓流には星野リゾートがある。言わずと知れた超高級ホテルであるここには、大勢の外国人観光客がバスに揺られてバカスカ入ってくる。あまり人はいなかったが、少しだけ不愉快だった。理由はわからないが。
美しい紅葉も資本主義という汚い人間の手によって染められていくのだろうか。
バベルの塔から見下されてもどこ吹く風でさらさらと揺蕩う紅の葉は、金という空虚に舞う人間のことをどう見ているのだろうか。

19:00 青森市 到着

八甲田山にて軽自動車にアホほど煽られ、神経衰弱になりつつ青森の市街地に入った。煽ってきた軽自動車とは市街地でしばらく追走していた。抜かしても抜かさなくても所要時間はあまり変わらないのに、人間はどうしてそう事を急ぐのだろうか。また青森が嫌いになった。

暗すぎる バイクのライトがあまりにも心細い

青森は銭湯の街である。理由は「青森に娯楽が少ない」「青森人はおしゃべり大好き」だかららしい。悲しい。
青森の市街地に入ると、東京郊外の数倍くらいの頻度で銭湯や公衆浴場を目にする。面白いことに、どこもそこそこ人が入っている。青森にはもしかして本当に風呂くらいしか娯楽がないのだろうか……?

19:50 宿泊地(快活)到着 

着いた。快活であるが。
快活CLUBのほど近くにある「あおもり健康ランド」というところで風呂に入った。料金は500円。旅人に優しい。

別日に撮影

この銭湯に限らず、青森の銭湯は朝早くからやっているところも少なくないし、青森の人はみんなお風呂セットを抱えて風呂に来ている。内風呂で知らないおじさんに話しかけられ、手ぶらの私がよそ者であることは一発でバレた。

その男性は息子が東京に出ているらしく、私に東京の事情をよく聞いてきた。方言が強く、そして早口なので5割程度しか聞き取れなかったが。

私が今旅をしていること、被災地を巡っていたこと、この経験を上手いこと就活に使いたい、ということ。のぼせながら長いこと話していた。

自殺場所を探して山梨、長野、新潟を放浪していたことも誤魔化しつつ話した これはその時の

私は良い大学に通っているため、大学名を聞かれて答えると「そりゃあすごい、将来も安泰だ」と言われた。
「いやァ、大学に行っても私はてんで勉強もせんですし……」返すと、「いやいや、勉強よりも大事なこともある。君は普通では思いつかない、もっとすごいことを考えている」と言われた。

その言葉は私をつらくさせた。

旅なんてやっている期間が長ければ長いほどカス人間であるのだから。こんな事をしているのなら、家に帰って資格の勉強や就活をしていたほうが時間の使い方としてはよっぽど正解であろう。
私は自分が今プー太郎であることを自覚しつつ、それに目を背けていたのだ。
どこかで路銀を稼いでゆっくり日本を回ろうと考えていた。休学届の書類も書こうとしていた。しかし、それはただ戻りたくない現実を「旅」という免罪符を使って先延ばしにしているだけなのだ。戻りたくない、東京と就職活動から。
私は社会のレールから外れても自分の力でやっていけるほど強い人間ではない。無能はレール通りの人生を歩む。それが一番賢い選択である。
いつかは向き合わなければならない現実なのだ。
ネットカフェに戻り、スマホのデータの中に入っている休学届の書類を眺めた。
少し考えて、削除した。
帰ろう。

私が、自ら家事に無能であるというと、「それはあなたが家事を軽蔑しているからですよ。農耕の道具や、季節や、順序や、ワインの作り方や、……自分が来ている着物の名前や値段に無関心なのは、何かもっと崇高な学問を心にかけているからですよ」などという人たちは、私に死ぬほどつらい思いをさせる。そんなことは実にばかげたことで、名誉どころか愚かなことである。私はよい論理学者であるよりはよい馬丁でありたい。

モンテーニュ『エセー』三巻9章 『空虚について』(岩波文庫)より

11月3日 7:30@青森市

無料モーニングを頂き、早々に快活CLUBを出発した。今日の目標は大間岬である。
言わずと知れた本州最北端の地であり、旅人が一度は憧れる、まさに「果ての地」である。
しかし、青森市からはなんと150kmもある。遠すぎである。私の愛車・ハンターカブは下道しか走れないので、どんなに頑張っても片道4時間はかかる。
往復8時間だ。1日のうち三分の一も125ccのガタガタうるさい単気筒の爆揺れバイクに乗らなければならないのだ。気が滅入る。
そしてハンターカブは65km/h以上で走ると振動が半端ではない。しばらく走った後にハンドルから手を離すと手が痺れているくらいだ。
このバイクは絶対に旅向きではない。まぁ行くけどさ。

出発前に昨日の「あおもり健康ランド」で体を流し、出発だ。

8:20 浅虫温泉

車社会の青森市は中々の渋滞ぶりだ。仕事に行く中をプー太郎である私はばつを悪くしながら、大量の荷物を持って下北への道を進む。
20分ほど走ると、浅虫温泉という温泉地が見えた。青森湾の東側に置かれた温泉地で、太宰治が『津軽』にて「都会的で悪酔いする」などとボロカスに叩いていたところである。

データが消し飛んでいたので浅虫温泉公式サイトから

太宰は津軽・五所川原の財閥であった津島家の人間であり、私を含めた全フランス文学科にとって憧れの的である。彼は東京大学の仏文科を出ているからだ。除籍になっているが。
小説でしか見たことがなかった浅虫の地は、思ったよりこじんまりとしていた。海岸線ギリギリに敷かれた温泉宿は、太陽の浮かんでから沈むまでのすべてを一望できそうで、贅沢な空間だ。
しかしまァなんというか、ヨットハーバーや砂浜が整備されていたり、無駄に小洒落ていて都会的で悪酔いした。資本主義の色をした砂浜・湘南のようなことをしなくても、素の状態で十分他の温泉地と戦えるだろうに。

9:20 野辺地町


へのへのもへじっぽい地名ランキング1位、野辺地町に到着した。このあたりで一度休憩を挟む。

寂れた街である

まだまだ下北まで遠い。正直、気が遠くなりそうだ。青森県は中々に大きい。
野辺地からは下北縦貫道路という高速道路が整備されているため、普通なら快適に行ける。
しかし、私のバイクは高速道路に乗れない。なんということだ。そろそろ疲れも蓄積してきたし、できるだけ楽をして大間まで行きたいのだが。
文句を言っても仕方がないので、どんどん進んでいく。

なぜだかわからないがあまりにも踏切が多い。何も考えずに作ったシティーズスカイラインのような道路状況の酷さである。

10:30 横浜町

下北地域にも横浜がある。有名な方の横浜は人口300万を越える日本屈指のメトロポリスであるが、こっちの横浜は人気のない更地である。

なーーんもねえ

ここで給油をし、ついでに休憩とコインランドリーでの洗濯を済ませる。
ガソスタのおばちゃんに「どこから来たの?」と言われた。私は誇らしげに「埼玉です」と返したが、特に驚くことも無く「あら〜、今日は天気もいいしバイク日和ね〜」とだけ返された。
多分ここの人は旅人に慣れている。私は赤っ恥をかいて、早々にガソスタを後にした。

11:30 むつ市(大湊)到着

むつ市中心部、大湊に到着した。旧帝国海軍大湊警備府に起源を持つ、軍港の街である。

車通りが多い

「北洋館」という旧海軍の会議所がそのまま展示室になっている博物館があり、大変に興味があったのだが、今はとにかく時間がない。先を急がねばならず、泣く泣く大湊を後にした。
昨日のように真っ暗闇の中をこのバイクで走っていたら命がいくつあっても足りない。日が暮れる頃には市街地にいておきたいのだ。

ヤマダ電機でGoproの替えのSDカードと飲み物を買い、ついでに休憩して大湊を出発。
ここからは特に印象のない森林を駆け抜け続ける。何かあるだろうと言われるかも知れないが、本当に何も無いので何も語れない。

明治より昔、下北の地は荒涼とした不毛の大地であった。戊辰戦争においてド派手な敗北をぶちかました会津藩が半ば左遷という形で配属されたのもここである。
荒涼にして寒冷、地質は火山灰が主で作物や産業振興の基盤もない下北に飛ばされた会津藩士は大変な苦労をしたらしく、多くの藩士がここで亡くなっている。その様子は、義和団の乱において北京駐留軍として活躍したことで知られる柴五郎が書き記している。
まぁ少し盛っているだろうと思っていたが、ここに来て「結構マジな話かもしれない」と思い直した。それくらい、下北には何も無い。人間の興した自然である田畑すら見当たらないのだ。

網走の囚人を割り箸のように使い捨て、発生した多くの殉死者をロクに埋葬もしなかったせいで心霊伝説が残り、いざトンネル補修工事を行ったら本当に人骨が出てきちゃって「人柱」がガチの話になってしまった北海道の常紋トンネルや、この世のすべてのブラック企業創作を過去のものにしたびっくりモーターのように、事実は小説よりも残酷であることが往々にして存在するのだ。

しばらく走り続けると、急にふと視界が晴れる。海であった。
本州と北海道を隔て、貿易・国防上の要衝である津軽海峡は、ひどく荒れている海として有名である。

下北半島の向かい側:津軽半島からは北海道新幹線の青函トンネルによって函館までつながっている。
この距離を人間がトンネルで通してしまったのだから驚きである。

13:00 本州最北端到着

バイクを走らせておよそ2時間弱、本州最北端・大間岬に到着した。

夢にまで見た最北の地。すべての旅人が1度は憧れる、まさに旅人の憧れである。
しかし、私の見た「そこ」は、私の理想とは大きくかけ離れていた。
「本州最北端」にかこつけた様々なお土産屋は活況を呈し、下北の最奥部なのにも関わらず人通りは大変に多く、駐車場は満席。ただ大きな音を立てることしか能のない旧車やハーレーの軍団と相見えたかと思えば、今度は大型バイクが「はよう去ねや」と言わんばかりに風呂敷を広げて小型・中型バイクを退かせる。
それでいて通りの店は観光客の足元を見た価格設定。

たけえ 東京のほうが幾分やすい

私の想像していた果ての地は、こんなものではなかった。私は大変にがっかりした。
大間の人々の生活がある。そう言われればもちろんそうだし異論はない。ただ私が、旅人気取りの私が、「果ての地は寂れていなければならぬ」という固定観念を抱えていただけなのだ。

口寂しさをタコ足で誤魔化した 200JPY

そしてこういった果ての地に人間は1人でいい。私ひとりでよかったのに、こんなにも大勢のバイク乗りや車が集まっており、私は大変に興醒めした。
こんなものか、最北端というものは。
私は本州最北端の写真だけ撮って、昼飯を探した。しかし、どこに行けど高い、高い、本当に高い。ウニ丼なんてここの名産でもないのに置いてあったし、高い。
私は大間の市街地も見て回ったが軒並み店は閉まっており、結局観光地価格の刺身定食を頂いた。

2500JPY

美味しかったが、ずっと値段が引っかかっていた。

食事をしている間にも、後ろのアジア系観光客がいつまでも刺身と自分の写真をインスタ用だか知らねえけどパシャパシャと目障りにも撮り続け、終わったかと思えばデカいクチャクチャ音で食い始める始末。
早くここから居なくなりたくて、私は得意の早食いで残りの刺身を食べ切り、早々に大間を後にした。

心外だ。
あまりにも心外である。
本当はゆっくり食事を楽しみたかった。そうあるべきだし、そうすべき美味しさの刺身であった。

しかし環境がそうさせてくれなかった。クチャクチャと音を立てて食べる文化の人々である。「そんな人もおるけえ、気にせんで早うお食べ」という私の母親の声が聞こえてきた気がしたが、生憎私は短気だ。早々に食い切って早々に食堂を出た。

私は大間をこれほどないまでに憤慨して出ていった。こんなに時間をかけてここまで来たのに、こんなにクソしょうもないところだと思っていなかった!こういうことなら来なければよかった!煮え切った私の心から、すくえど追いつかぬほどのアクが沸き立つ。
しかし、大間を離れてしばらく走り、私はひどく惨めな人間であると自分を責めた。
ここには大間の人々の生活があるのだ。私のような金なし暇なし甲斐性なしの大貧民が来るべき場所ではなかったのだ。
宗谷岬に行ったときもそうだった。こんな感じで、日本最北端にかこつけたあれこれがあって、大変に興醒めしていたのだ。

宗谷岬に行ったときの

私は金がないだけである。高い海鮮丼を見て辟易としただけだ。もう少し金があれば楽しめたのかも知れない。私はそう考えて自分を落ち着かせた。
すべて私に金が無いのがいけないのだ。金さえあれば楽しめたのだ。

しかしそれは、東京と大きく変わらないものであろう。東京は富裕層に都合よく作られた街であるのだから。
本州最北端の、地平の終わりまで来て私は、東京にいる時と同じ感情を持つことになった。

15:00 休憩

憤慨と悔恨、そしてこんな時間なのにもう日が暮れていることへの焦燥感を胸に一路、青森へと戻る。
弘前で一泊しようかと思ったが、青森市にある「ワ・ラッセ」というねぶた祭の伝承館に行きたかったため、今日も青森市で宿泊だ。

下北の15時は、もう夕暮れであった。
消えゆく太陽が放つ最後の光に惹かれ、私は思わず適当な公衆トイレにバイクを停めた。
茜色に光る豪奢と紙細工のように織りなす憂愁の空模様は、古来から日本人の琴線を強く刺激してきたに違いない。私もその一人であった。
煙草に火を付ける。
これまでの負の感情が洗われるような、美しい夕日であった。この旅のハイライトである。

美味い煙草とうまい景色

また午前中と同じ道を通って帰る。しかし夕日というものは、いつもの道を特別にする。それが通い慣れている道であるならなおさらだ。
資本主義によってひどく落ち込んだ私に、自然が慈悲を見せてくれたのだろう。私はその幸運と運命に少しだけ感謝し、この日常に転がるスイートルームをゆっくりと堪能していた。

18:00 青森市へ帰還

青森へ戻った。あんなに意気込んで「日が暮れるまでには帰る」などと抜かしていたくせに、しっかりと日は暮れて夜になっていた。間に合う時間に家を出たつもりなのに、理由は分からないが授業に遅刻する私の大学生活を象徴しているようだった。
夕飯は青森名物の煮干しラーメンであった。

メンマおかわり無料が気持ちよかった

その後は昨日と同じく「あおもり健康ランド」にて風呂に入り、副交感神経をビンビンにしたまま快活で就寝した。

あおもり健康ランドの休憩室

今日はひどい日だった。大間岬も性に合わない土地であった。
今日は早めに寝ることにしよう。持ってきた寝袋を快活のマットの上に敷く。
明日こそは「それっぽい」1日にしてやろう。そう意気込んで。

明日もまた、同じ日が来るだろう。幸福は一生来ないのだ。それはわかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。

太宰治『女生徒』より

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