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映画「ウイザード(The Navigator)」考察

映画,ウイザードはペストの流行におびえる中世の村で,少年が見た夢に望みを託した村人たちが夢のお告げ通りに行動を起こし,タイムスリップする物語である.本記事は,少年の夢とそれに対する村人の行動について少し考察したものである.なお,この考察はすべて個人の妄想である.

ペストにおびえる村

主人公の少年が暮らす村は周りを山に囲まれた小さな集落ー共同体で,どこの共同体もそうであるように外の世界に対する漠然な不安と戦っていた.そんな中で村の情報役である少年の兄が旅を終えて帰ってくる.彼が外の世界で見たのはペストによって死にゆく多くの人の姿であった.
このペストの流行は,外部でもそうであったように,この村でも「悪魔」と受け取られている.この悪魔は満月の夜に足を伸ばし様々な村を襲う.
この流行を知り,村では作戦会議が行われる.少年はお告げのような夢を見て,村人たちはそれを実現させようという流れになる.少年が見た夢の情景は以下のようである.
・穴を掘る
・教会へ登る
・人が落下する
・十字架を立てる
・川へ棺を流す
・揺れる十字架
・自分が川の中に入っている

地理と空間の感覚

村での作戦会議では村人が以下のようなことを話す(抜粋・意訳).
村人A「西にある教会へ捧げものをしたらどうか」
村人B「西の教会は地の果てにあると聞く.山を越え,河をわたり,地獄を超えていかなければいけない.遠すぎる」
村人C「教会にうちの村の銅を捧げたらどうか」
村人D「鉱山の後ろに恐ろしく深い穴があって,地の果てに続いている」
ここで,少年が夢で見た穴を掘る・教会・十字架と合致する部分があることから一同は少年の夢に従うことになる.

教会の場所とは

さて,前述の作戦会議の中では「西の教会へ行こう」というのが当初の目標だったはずである.しかし,実際に彼らが取った行動は「穴を掘る」ことであった.

西の教会へ行くために進むべき方向と実際に進んだ方向

ここで,教会が「西にある」ことはおそらく事実であるのに対し,「地の果てにある」と言った村人Bの発言はかなり妄想(想像)であることが「…と聞く」という語尾から推測される.しかし,この村人Bの発言によって教会の場所が西かつ地の果てにある,という解釈になり,その後の「深い穴が地の果てに続いている」という発言によって
教会の場所=地の果て=恐ろしく深い穴の先
という解釈が成立してしまう.

なぜ穴を掘ったのか

さて,なぜこんな等式が成立し,穴を掘ったのかについて考えたい.
少年の夢に出てきたからというのは言うまでもない理由の一つだが,この少年の夢は,会話と全く関係ないところで見ていればおそらく信じてもらえなかっただろう.そう考えれば,穴を掘る理由の後押しにはなったが,第一の理由にはならない.私は,これには前述の等式の完成と,村における内と外の感覚がかかわっていると考える.
前提としてこの村は,かなり独立した村である.月夜の晩に,外部から侵入者(ペストを恐れる者)がやってくるような描写を見ると,常に概念ではなく実際の外敵が存在していることがわかる.「外は怖いところだよ」と言うのを身をもって感じている.
この村で一生を終える人がおそらくほとんどで,外の世界に対してぼんやりとしたイメージもないかもしれない.自分たちの村以外の世界に対する解像度がとても低く,よくわかっていないことがこの等式を成り立たせた根源であろう.
対して,村の内側は安心できる場所である.女たちが飯を作り,子供たちが遊び,外からは男や魔除けが守っている.そして,穴を掘る行為は”内側に向かっていく”行為である.
つまり,西に行くには外に出なければいけない.実際に山や川を越え,敵もいるだろう.穴を掘るのは自分たちの内側であり,地の果てに自分たちを救う”神”がいるならば,より安全で神聖な内側であるほうが納得がいく,というのもうなずけるように感じる.

時間の感覚

こちらは,考察と言うほどではないのだが,面白いと思った点に触れる.主人公の少年が兄を待つシーンで「もう〇日帰ってきていない」ということを言う.この村ではおそらく1時, 2時, 3時…という時間の感覚はない.日が昇って落ちれば1日であり,朝・昼・夜のような判断しかないだろう.しかし,「悪魔は満月ごとに足を伸ばす」という表現からもわかるように,月の満ち欠けに意味を持っていることを感じ取っている.”時間”と言う感覚がなくても周期には呼応できるというのが面白いと思った.
満月の日に何かが起こるというのは,決して月の満ち欠けだけの話ではなく,明るい夜であることから外敵が侵入しやすかったり,移動に適していたりするという,実際の行動に伴って生まれた感覚であるのかもしれない.

タイムスリップをどう思っていたのか

本作品は最終的に,タイムスリップ中のことは夢オチで終わる問題作だが,村の人々は現代を終始「地の果て」と思っていたようである.これも繰り返しになるが,外の世界について未知のことが多すぎると,想像ができない.または,想像を超えるものを現実と受け入れているようである.彼らの旅では彼らが達成したいことがおおよそ達成できたことも現代を「時代を超えた」と感じない理由であろう.このような描写は漫画「テルマエ・ロマエ」などでも見ることができる.
実際に,もし人間が時代を超えた際も当然の心理として,時代を超えたとは考えられないのかもしれない.


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