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白い悪魔(ショートショート)

私の頭にはいま中身がない。まさに空っぽだ。ぼうっとして思考が働かない。胃の中に穴が空いて食べたものがみんなそこからさらさらと流れ出してしまうかのように、受け取った情報が吸収されない。覚えようとしてもたちどころに消えて行ってしまうのだから。いつからこうなってしまったのだろう。そう思うと何だか肝が冷えるかのような心地になる。まるで自分の芯というものが凍り付いてしまったことに気付いた気になるのだ。私は結局何がいけなかったのかを知りたくなくて、最初からその中には何もなかったのだと自分を説得しようとしているのかもしれない。目をそらし、真実を知ることを避ける。私には何も過失はないと認めたい。いや、そうでなくてはだめなのだ。

さらさら、するするとどんどん中身は流れ出していく。それでいて自分の胸の奥というものはより一層どくどくと脈打つのだ。考えたくない。考えたくないのだと自分に言い聞かせるうちに全てが終わってしまうかもしれない。そんな恐怖心に襲われはじめる。とうとう体を二つ折りにし、脂汗をかき始めた。震える手でスマホに触れる。画面上で指の腹を滑らせる。もう「自分は何でもない、大丈夫だ」と説得することができなくなった。寒気がする。凍り付いていたのは心ではなくなった。

「だ、だれか…助け…」

そして私は意識を失った。








「うっ…お兄ちゃん…」
「ん、ここ…どこ?」
「目を覚ました!お母さん!!」

目を覚ますと見知らぬ白い天井が見えた。そばにいるのは妹であったらしい。大きな声で母を呼ぶとぱたぱたと音を立てて母が部屋に入ってきた。軋む体を押さえつつ、なんとか体勢を整えようとした。途端にずきっと痛む胃のあたりは、先ほどと違って情報をたれ流したりはしなかった。妹がいる現実、母が駆け寄ってきた現実をきちんと受け止めている。ここはおそらく病院だろう。つんとした消毒のにおいがする。

「あんた、なんであんなことしたの?」
「なにが?」
「勝手に冷蔵庫のもの食べたでしょ」
「えっ…」

それは事実だった。私は昨日父が釣ってきた魚をこっそり食べた。いずれ夕食にされるのだと知っていても、おいしそうで先に食べたくなってしまったのだ。だけど、それとこれと何の関係があるのだろう。痛む胃のあたりを擦りながら私は考えた。一人でつまみ食いしてしまったことをなんとかごまかせないかと性懲りもなく考えたためだ。

「相当我慢したんでしょう。お医者さんもびっくりしていたわよ。大きな穴が開いていたって」
「お兄ちゃん、バカでしょ」

妹が鼻をすすりながら言う。母は呆れた様子ながらも、かなり焦燥していたのだということがわかる風貌だった。二人とも疲れ切った表情をしている。なるほど、この包帯は処置をされたからだったのだ。私は緊急手術を受けたのだろう。

「そんなに大変な処置だったのか…」

そう呟くと、妹にぱしっと頭を叩かれた。


数刻もすると仕事を早めに切り上げた父も合流し、しばし家族の歓談となる。こんな風にみんなで顔をそろえるのは久しぶりだった。私は大学の卒論があって不定期な生活になりつつあるし、妹は受験生ということで夜遅くまで塾で勉強している。母は最近はずっとひとりで夕食を食べることが多かったはずだ。父は残業があるときには本当に帰ってこない。

「きっかけはこんなんだったけど。ちょっと嬉しかった」
「何がよ」
「ん?愛されてるなって」
「何よそれ!ちょっとは反省しなさいよね」
「まあまあ、だけどそれも一理あるだろう」
「お父さん…!」

食ってかかってくる妹を父が極めて穏やかに止めた。そういえば父がこんな風に早く帰ってくることはあまりない。私たちの誕生日の日ですら仕事に追われてそちらを優先していた。それなのに緊急手術となったら駆けつけてくれるんだなということに胸が熱くなった。

「父さん、ありがとう」
「いやいや。家族の一大事だ、これくらいはしないといけない」
「そうよ。今回はいきなり手術なんて言われてどうしたらいいかわからなくなってしまって…。それでお父さんにも来てもらったの」

母が助け舟を出したが、妹は相変わらずむうっとして顔をそらしているのを、私はぽんと手を置いて頭を撫でてやった。妹は小さいころからこの仕草をすると大抵機嫌が直る。今回も効果てきめんだったようで、私の手を軽くどけると振り向いてくれた。

「…お兄ちゃんが無事でよかった。もうこんな心配かけないでよね」

退院したらみんなで焼き肉でも行こうと約束して、三人は帰って行った。私は布団の中でこっそりスマホで検索する。そこには倒れる前に調べていた情報がそのまま残されていた。自分自身の芯はもうひんやりと凍ってはいなかった。まるで全てが溶け切って流れ出していったかのようだった。ばれてしまってはもう隠す必要がない。

「ああ、そうか。本当にアニサキスで合ってたんだ」

認めたくなかったその五文字をようやく言葉にしてみると何だか楽になった。やっぱり頑として事実を受け入れないのはよくないか。




かっちーさん、犬柴さん主催の「氷と水の芸術祭」にひっそりと参加致します。かっちーさんの俳句「水水水水氷水水水水」というテーマから自分なりに考えてみました。氷の意味をどう持たせるかということについて考えるのが難しく、また楽しかったです。少しでも楽しんで頂けたのなら幸いです。あんまりひねりのない話なのでもし浮いてたらすみません…。

素敵な企画をありがとうございました!私も応援しています。

読んで下さり本当にありがとうございます。サポート頂けると励みになります。いつも通りスイーツをもぐもぐして次の活動への糧にします。