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なぜダイバーシティ工房を立ち上げたのですか?と聞かれて浮かぶ出会いや原点

なぜダイバーシティ工房を(NPOを)立ち上げたのですか?学習支援や女性への生活支援など、不破さんがやってきたことの原点はなんですか?

そう聞かれたとき、私には思い浮かぶ人や風景、言葉がいくつかあります。

自分が知らなかった世界の見え方と出会えると、それは希望になる。そんな思いで始めたNPO法人ダイバーシティ工房のルーツは、遡ると私自身の子ども時代〜10代の経験と繋がっています。

今回は、これからダイバーシティ工房と何らかの形で出会ってくださる方に向けて(そして改めて一緒に働く仲間たちに向けて)、ダイバーシティ工房がどんな背景や考えから生まれた団体なのか、私自身の経験を振り返り、書いてみようと思います。

ダイバーシティ工房新オフィスをオープンした2014年当時


学ぶことがとにかく楽しいという経験

私にとって小学校時代、特に学びの経験はとても楽しい記憶として残っています。

スタジオplus+(発達障害や不登校状態にある子どもたちを対象にした学習教室)のような“学びの場”を作りたいという気持ちの原点は、自分自身が学習と出会う最初の場所で、学ぶことは楽しい!と知ることができたからだと思っています。

小学校中学年の頃、ある時はギターを弾いてみんなで歌ったり、ギリシャ神話や日本昔話、本当にあった怖い話などを話してくれる先生がいました。その先生はある日、丸一日ホームルームとし、”お店屋さんごっこ”をする日を作りました。

お店屋さんごっこといっても、それは小学生ながらも工夫する場面がたくさんあり、班ごとに1日の売上を時間ごとに公表され、商品の差別化や、在庫が出ないように値下げやまとめうりする工夫をしたりと、今思い返してもとても楽しかった記憶があります。

準備には約1ヶ月をかけて、毎日放課後は同じ班のメンバーと教室に残って話し合ったり、せっせとお店の開店準備をしたことを今もよく覚えています。

当日の朝は各班で売上目標を立て、目標を達成する方法、商品、時間ごとのシフトなどやお店の中での役割分担について話し合いました。隣の班の出店調査までして、自分たちの店づくりに活用。最後は店を開き、各班の成果発表がされました。

座学では得難い達成感、班で協力して感じた楽しさ、他の班に売り上げが及ばなかったときの悔しさ…教室の中で感じたのは様々な熱気でした。

1人の力には限界があるけど、チームでそれぞれの得意なことを活かして協力すると大きな成果が出せるんだ。そのことを、一番最初に感じた経験だったと思います。その先生が担任の頃は毎日、学校って楽しいな〜と感じていました。

30年以上も前にして、今で言うアクティブラーニングや学び合いの形態を取り入れる教育熱心な公立小学校に通っていたことは、今でも幸運だったなと思います。

非常階段で学校の違和感について語る

そんな学びの楽しさから一転。中学校に入学し私が抱いた感想は、「超つまらない」でした。

小学校での学びが楽しさで溢れていただけに、考えたり、工夫をするる楽しさを感じない授業、生徒を縛るだけの校則、生徒の自主性が全然期待されないこと、全てが今までと異なる中学校での毎日が本当に窮屈なものに感じました。

教育はこれじゃだめだ!中学校はこんなんじゃだめだ!と非常階段で小学校からの友人と学校教育の違和感について語る日々を送っていました。

変わらない毎日の中で、「自分は無力だ、このままではいけない!何か自分に負けない様に力をつけなきゃ」と急に思い立ち剣道部に入部。それから2年半、顧問の先生に「他人ではなく自分に克て」と喝を入れられる放課後を過ごしました。

勉強へのやる気は中々取り戻せなかったけれど、その頃、私がダイバーシティ工房を立ち上げる原点の一つになる出会いがありました。当時仲の良かった、母子ホームで暮らす友人です。

母と姉と暮らしていたその友人はある日、
「すごい狭くて自分の部屋もない、常に人がいるようなあの場所に、なんで私が住んでるかわかる?」と私に問いかけ、
DVが原因で親戚のおじさんの車に入るだけの荷物を押し込み、母子で夜逃げしてきたことを教えてくれました。

それまでもほぼ毎日一緒に過ごしていましたが、進路のことで悩んでいた彼女は、その後自然な流れで父がやっている個人塾・自在塾に来るようになり、毎日一緒に過ごすようになりました。

考え、行動すると、変えられるかもしれない

窮屈な思いから抜け出そうと入学した高校は、自分が抱いていた期待の半分くらいの自由を感じる場所でした。

私にとって自由を感じられることがどれほど大事だったかというと、高校一年生のとき、友人たちと「自主自律なんて校風を謳っているけれど、学校のこんなやり方や決まりが、生徒の自主自立を促していないと思います」と学年主任の先生、教頭先生、校長先生に直談判をしに行ったことがあります。

学校への違和感を共有していた仲間たち(写真左奥が私)

成功体験と呼べるような、自分たちで立ち上がり動くと物事を変えられると感じた経験もありました。

高校2年生の文化祭のあと、数ヶ月に渡って担任や専科の先生への交渉を続け、私のクラスだけある日一日、生徒で何をしたいか考え時間割りを変更して泊まり込みで合宿を開催する日を作ることができたのです。


今でも好きな合宿。人と夜な夜な話す、朝ぼーっとしながら一緒に朝ごはんを作る、そんな時間が好きだったのはこの頃から…

実現したいことのためにその道筋を考えると、学校内のリアルな構造や仕組みもちゃんと見えてくるもので、決定権を持っているのは誰か?誰にどんな働きかけをすると効果的か?どんな風に伝えたら人は動いてくれるのか、そんなことを毎日考えていました。

良い思い出ですが、この流れはその後も続いたわけではありません。一年生のときは担任の先生の理解があったけれど、先生や環境が変わると、生徒側の意見や訴えは、「高校ってそういう場所じゃない。1クラスだけ勝手なことをさせる訳にはいかない」そんな一言で一蹴されるようになりました。

物事を変える方法を学び、変えられるという実感を得たのと同時に、学校という組織内の権限や利害関係の変化によって、生徒への対応もガラっと変わるのだな、何て理不尽なんだろう。とまた別の現実を思い知らされました。

それでも、思いや違和感を共有する友人たちと話し合い、大人に働きかけ、望む状況を実現するまでの過程は刺激的で、うまくいかないことも含めてこの時期に学んだことが今に活きていると思い返します。

言わないだけで色々ある。それがいつも一緒の仲間でも

そんな高校生活も卒業間際のこと、ずっと忘れられない出来事があります。

高校三年生になり、大学進学に向けて仲の良いある友人と受験勉強に勤しんでいました。

高校時代の仲間たち(写真中央右側で手を広げているのが私)

その友人は母子家庭で、親との関係は良好とは言えず、彼女やきょうだいの貯金が使われていた、というような話も聞いていました。私立大学は経済的にも一校しか受けられない状況の中で、彼女は必死に勉強をしていました。

ところが迎えた入試当日、その友人は朝寝坊。ただ、それは急いで会場に向かえばまだ間に合うような時間帯でした。でも、

「走ればまだ間に合うよ!いってらっしゃい!」

彼女には当時、そう言って家から背中を押して送り出してくれる人の存在がありませんでした。

もう無理だ、と思った彼女は唯一受ける予定だった大学入試を諦めました。

頼れる誰かが家の中にいたら。

「間に合うから走って行きなさい!」と言ってくれる人がいる自分の環境を考えると、本人の頑張りとは別に周囲の影響の大きさを痛感しました。

その春、私は希望通り大学生になりました。当時はしばらく連絡がつかず何があったのかわからなかったけれど、しばらくして彼女から連絡があり、その出来事や心境を知りました。

あんなに一生懸命勉強して、むしろ勉強なら彼女の方ができたのに、同じように頑張っても環境ひとつで将来の選択が変わってしまう。私にはそのことがかなりショッキングでした。

いつも一緒に笑って学校生活を送っていた身近な友人たちが、家庭環境でかなり複雑な状況にあり暴力を受けた過去があったり、友人の母だと思っていた人は親戚の人だったり、近くで一緒に日々を過ごした人の背景にあったものを、後から知ることが他にも何度かありました。

家庭環境に恵まれたり、希望通りの進路に進めたりすることが幸せで、そうでないことが不幸ということではないと、はっきりと思います。

ただ、彼女たちに限らず、いつも一緒にいる仲間にでさえ、あるいは近い存在だからこそ言えないことや話したくない状況や気持ちが自分の内にだけあると、それは苦しいときもあるのではないかと想像します。

当時の私たちを傍から見れば、楽しさ120%で青春を謳歌している今どきの女子たちにしか見えなかったと思います。ただただ“普通の”女子高生。

人は見かけではわからないことがたくさんあるし、生きていると色々ある。むしろ色々あることが当たり前なんだよな。心底そう思うようになるのに、中高校時代の友人たちの存在は大きなものでした。


そして、「ダイバーシティ工房」に込めた願い

家庭内の事情が複雑でも、帰りたいと思える家ではなくても、学校が楽しくなくても、それでも生きていくことのおもしろさや、自分が大事にしたいものをいいねって言ってくれる人が必ずいるよ。幸せかどうかは、誰かとの比較じゃなくて自分で決めることだよ。

父が経営する自在塾を引き継いで出会った、やはり様々な事情の中で生活する子どもたちのことを思いながら、2012年、自在塾を前身に法人を立ち上げ「ダイバーシティ工房」と名付けました。

ダイバーシティ工房立ち上げ当時、学生インターン生たちと

高校卒業後、バックパックで世界を巡った大学時代や商社に飛び込んだ会社員時代を経て、やっぱり教育の場に戻ってきて父の事業を引き継いだ私は、子どもたちや彼らを取り巻く環境を前に、生きていくことのおもしろさを分かち合えるような、色んな価値観に出会えるような、そんな場を作りたいと思いました。

初期のミーティング風景、自在塾にて

課題の直接的な解決にすぐには繋がらなくても、いるだけで/あるだけで救われるような人の存在や関係性、場があるし、そういうものこそがずっと続く生活の中で必要なものではないかと思います。そして、それは作れるもの。

創業時と変わらず今も、ダイバーシティ工房のサービスが、暮らしの中で誰かにとって希望を持てるきっかけになれるものであれたら、そう思っています。

時を経て2022年、一緒に働く仲間たちと。移住した沖縄にて


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